2017年3月号掲載
1903年生まれ、46歳の若さで没した英国の作家、ジョージ・オーウェルの最後の小説「一九八四年」が、トランプ政権下の米国でよく売れている。それについて、新聞に何か書けという注文が入り、1週間まるまるこの作家の世界に耽溺した。
こういうとき、私は性格が出てしまい、本題に関わる話、新聞記事で使えそうなおいしいどころだけを探せばいいのに、できれば全部、その作家の作品だけでなく手紙や日記、作家についての評論まで、すみからすみまで読まないと気が済まなくなる。細部、どうでもいいこと、本題とは関係のないところまでサンプリングしたくなるのだ。
そして、付箋を貼った箇所を、エクセルというソフトウェアに自分で打ち込んでいく。読んでいく中で自分に引っかかる、「おっ、これは」と思う一文を選び出すわけだ。これに似たことは随分前からやってきたが、3年前、ある人物の評伝を書き始めた時から本格的に採用した。その評伝を書いた時はA4の紙で20枚ほどの分量になったが、今回は4枚で済んだ。
次にこのサンプリング表を読み返し、それをジャンル別に並べ替えていく。今回の「一九八四年」の場合、「未来」「憎悪」「個の闘い」「虚偽」「大衆」「愛」などと13のジャンルに仕分け、それを印刷し、再度読み込む。
そして全部で300ほどのテキストから、これも自分の直感で、大事そうな文章をさらにサンプリングする。その時点で残ったのは15程度だから、5%ということになる。本の場合、この歩留まりはもう少し高い。100聞いて、100読んで1を書くという新聞の場合、必然、ここで大半がそぎ落とされるのだ。
だが、落とされた95%を完全に捨てたわけではない。最終的に原稿を仕上げる過程で、捨てた表現が心によぎることもあるし、ごくまれにだが復活する場合もある。捨てられた文章は、残された最重要サンプルを際立たせてるわけだし、すでに何度も読み込んだことで、書き手の頭に陰に陽に影響を与えている。
次の作業はその5%、15ほどの文章から問いを打ち立て、その解を求めていく作業になる。インタビューや別の資料を探る仕事だ。そして、それを終えるとようやく原稿書きの段階となり、最終的には「最重要サンプル」の最も重要なものが引用文として日の目を見る。つまり読者に届く「原文」は表の中のせいぜい1、2%にすぎない。
そんな作業をしていたら、同僚が「うわっ、理系」と言葉を投げてきた。理系だろうが文系だろうが、新聞記者は意外にこういう作業をしない。物を読んでいる暇があれば人に話を聞け、と言う人までいる。人のコメントで話をつなげ、本からの引用を嫌う人は特にそうだ。どれだけたくさんの人に話を聞いたかという「新聞らしい体裁」に毒されているとそうなる。
だが、人の話も書き言葉もテキストである点は同じだ。また人から、特に専門家から意味のある話を聞くには、その人と同じレベルは無理でも、それにできるだけ近づき、さらに、こちらがサンプリングの過程で見いだした素人なりの発見を伝える必要があると私は考えている。そのとき初めて、その人から面白い話を聞けるわけだ。「何も知らないので教えて下さい」より、「ここまで勉強したけど、ここがわからない。でも私なりにこんな風に思った」と問い掛ける方がいい言葉が返ってくると私は信じている。
それにしても、ほとんど捨てることになる面倒なサンプリングをなぜあえてするのか。打ち込むだけでも原稿を書いている時間の何倍もかかる。この辺は確かに理科系的かもしれない。地質学者は山や谷を歩いて石を持ち帰る。そのうち、自分の論文に使えそうな石は限られているし、論文を仕上げれば、石はご用済みである。だが、彼はそれでも石を捨てずいつまでもとっておく。それは、ある日自分の論の間違えに気づき、捨てる石を見直すことがあるかもしれないという保障もある。だが、それだけではない。例外的に独立していて論の役に立ちそうにない石でも、なぜか魅力的に見えることがある。今は論にはならなくても、それを後生大事に持っていたら、いつかその石の意味が見えてくることがあるかもしれない、いやその石は何かを考える日々を与えてくれるかも、という期待だ。私の感覚もそれに近い。
今回、大量に捨てたオーウェルの文章の中にこんなものがあった。死の1年前以内に書かれた手記だが、日付が特定できないものだ。
<現在(一九四九年)、私の最初の書物が出版されてから十六年、私が雑誌に論説を発表し始めてから約二十一年たつ。その間ずっと、自分が怠けていること、自分の執筆したものがひどく少ないことを感じなかった日は一日もなかった。私は進行中の作品から何ひとつ達成感を得ることもできない。本が仕上がるが早いか、あくる日から私はくよくよと悩み始める。なぜなら次の本にはまだ着手していないし、次の本など決してできないのではないかという不安につきまとわれるからである。私の執筆したものがかなり多いことはわかる。だが、それで自信がつくわけではない。なぜならそれは、今では失われてしまった勤勉さと想像力とが、かつては自分に備わっていたのだという感じを与えてくれるに過ぎないからである>(一部省略)
痛々しい。死後半世紀以上もベストセラーとして読み継がれる作品を残した書き手にしてからこうだ。彼に比べれば私など藻くずのような存在だが、日々全く同じ思いで生きている。
彼のこの文章がこの先自分にどう関わってくるのか、皆目見当もつかないが、サンプリングをしなければ、見つけられない言葉だった。
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