自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

赤瀬川さんの文体(その1)

2014年6月号掲載

毎日新聞地方部編集委員藤原章生(当時)

 

 作家の赤瀬川原平さん(77)の文体がここ数年ちょっと変わった。彼の持ち味は、誰もが見過ごしているような当たり前のことをとらえるときの独特な感性、日常の言葉一つとっても普通の人が気づかない受け止め方、かといって異常とまではいかない、ほどよい変(へん)さ、ほどよい偏りというか傾きで何事もとらえ、自分自身がその「変さ」によく気づいていない、つまり、わざとらしさや受けを狙ったところのない、自分の感性に正直に言葉をつづるところにある。

 ここ数年の文章を読んで、「お、そぎ落とされた」と感じた。俳句や歌の世界ではないが、より言葉の核心というか、少ない言葉で、自分の感性を表そうとしているように思えた。患者向けの医療情報誌『からころ』に連載していたコラムが『健康半分』というタイトルで出版されたのは2011年7月だ。その年の6月に書かれた「あとがき」の文体はこうだ。

 <病院の待合室の空気は独特である。自分の体に何らかの診断が下される、それを待っている場所だから、誰しもその空気にはひやりとしたものを感じている。

 人間、あるいは人生は、体あってこそのものである。でもふだんは体のことなど考えない。健康が当然だと思っている。そこへ何らかのアクシデントがあり、どうしたものかと病院の待合室に来ている>

 「ひやりとしたもの」や「どうしたものかと」などは赤瀬川さんらしい表現だが、一文が短く、全体に静かである。一字一句渾身で書いているような印象もある。

 赤瀬川さんとは2007年9月末に初めてお会いした。当時、毎日新聞の夕刊編集部にいた私は、赤瀬川さんが東京を歩く企画「散歩の言い訳」の担当になり、私がローマに転勤する翌年の3月まで、あちこち一緒に歩いたり、「反省会」と称して、軽く一杯飲んだものだった。

 私が担当になって間もないころ、確か、世田谷区の経堂を歩く予定の朝、妻の尚子(なおこ)さんから「けさがた、急に、めまいがして、立っていられなくなって」と電話が入り、どうしたものかと思った私は、早速、玉川学園の自宅に見舞いに行った。  絶対安静というほどではないが、原因がよくわからないので、すぐに動かない方がいい。それでも、「散歩の言い訳」はその時点で1年半休みなく続いた人気企画である。夕刊の1ページをまるまる使う紙面に穴を空けるわけにはいかない。私は渋谷のハチ公前のスターバックスに座って、スクランブル交差点を歩く人の群れを見る「座って散歩気分」や、相撲観戦しながら国技館の中を歩き回ったり、サンシャインシティーにただ行くだけといった、体に負担の少ない企画を考え、「散歩の反省」と称して、散歩を振り返る聞き書きをしたりもした。実際、外に出るときは、心配だからと、尚子さんも同行し、あれこれ励ますうちに、翌年の2月にはどうにか普通に歩けるようになった。  4年後の2012年、イタリアから帰国した私が夏に自宅を訪ねると、75歳になっていた赤瀬川さんはすっかりやせていた。胃がん脳卒中を立て続けに患い、二つの手術を経たばかりだった。それでもいつものユーモアは忘れず、「ジャイアンツの王さんが胃がん、やりましたよね。長嶋さんが脳卒中ですから、僕はON(オーエヌ)両方やっちゃいましてね。生まれも二人のちょうど間なんですよ」などと話していた。

 そしてこの春、郡山から戻り再び訪ねると、今度は、肺炎に端を発した病にやられ、寝たきりになっていた。

 赤瀬川さんは過去3年、あれこれと重い病をくぐり抜けてきた、というか、今もその中に入り込んでいる。文体が大幅にそぎ落とされた一つの理由は、そこにあるのではないかと思う。

 『健康半分』の最初のエッセーは、こんな風だ。

 <病気はチャンスだと思う。成りたくて成る人は一人もいない。でも時と場合によっては成ってしまう。(略)一定期間、病気の世界を通り抜けていく。いわば病気観光、病気旅行だ。

 エッセイなど読んでいても、やはり経験の幅の広い人のものは圧倒的に面白い。エッセイでなく人と会っての話でも、病気をくぐり抜けた人の話は面白い。(略)病気でなくて貧乏もそうだ。貧乏を知らない人の話はいまひとつ味わいがない。(略)その点での白眉は内田百閒である。(略)百閒はお金持の家に生まれて、没落して貧乏になるが、お金持のままだったら、おそらくあんなに面白い文章は書けなかっただろう。

 同様な人でもう一人というと、熊谷守一<くまがい・もりかず>(筆者注:1880年岐阜県生まれの画家)。やはり両極を往復している。この人は画家だから言葉はあまり残していないが、わずかに点々と残された言葉が、石ころみたいに何でもないくせに、気がつくと光って、気品に満ちている。>

 画家、前衛芸術家として鳴らした赤瀬川さんがプロとして物を書き始めたのは、70年代半ば。30代後半のそのころは、かなり冗舌な文体で、60代のころの『老人力』もまだ文体が踊っている。病を経て、文体は削り込まれたのか。それとも、それは徐々に徐々に変わってきたのか。「石ころみたいに何でもないくせに、気がつくと光る」言葉を求め続ける過程で。

 気楽なようで、ゆるそうで、実のところ、自分の言葉にはとても厳格だった作家の文体を研究してみたい。

=この項つづく

 

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