自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

いつまでも耳に残る歌

2016年12月号掲載

毎日新聞夕刊編集部編集委員(当時)/藤原章生

 

 「詩についてどう思います? 日々の生活や自分の言葉に詩が何か影響を与えていますか」――。懇意のラジオ局のプロデューサーと電話で話していたとき、おもむろにそんなことを聞かれた。その人は詩についてのラジオ番組を担当していて、ヒントがほしかったようだ。

 私はこう答えた。「詩については語れませんけど、歌謡曲フォークソング、ニューミュージックなんかの歌詞なら、自分が文章を書く際、結構影響を受けている気がします」

 学生のころ、先輩が詩人だったので、本棚にあった山之口獏金子光晴、フランスの現代詩を読み、一時はまったこともあったが、そんなにいい読者ではなかった。背伸びをして、無理して読んでいた。20代の末から一時、詩の同人誌にエッセーを寄稿していたことから、そこに書かれた詩を読むことはあったが、散文で書かず、詩という形にする意味がよくわからないというのが本音だった。

 でも、小さい頃から流行歌は好きで、商店街で流れていたり、家で母親がレコードをかけるとすぐに覚える方だったので、そっちの影響は受けている気がする。でも、どんな風に? と聞かれると難しい。質問されてパッと思いついたのが、小椋桂作詞、井上陽水作曲の「白い一日」という歌だ。私は陽水のアルバム「氷の世界」の収録曲として家で初めて聞き、後に小椋桂のバージョンをラジオで聞いた。歌詞はこう始まる。

 <真っ白な陶磁器を 眺めては飽きもせず かと言って 触れもせず そんな風に君の周りで きょうも一日が すぎてゆく>

 初めて聞いて以来、そのまま耳の記憶として残っている。この歌い出しの部分で最も強い印象を与えたのは「かと言って」という言葉だ。

 これを陽水は「か」にアクセントを置き、強い語調で、まるで「か!」という言葉を言いたいかのように歌っている。一方、小椋桂は淡々と、普通の接続詞として歌っている。どちらがいいという訳ではないが、どこかで読んだ話では、九州出身の陽水は「かと言って」という言葉が慣用句でなかったため、その音が特別に思え、そこに力点を置いたという。

 原稿で何気なく「かと言って」という言葉を使う度、私はこの歌の影響だと気づく。「それでも」「しかし」「とは言え」でもいいのに、あえて「かと言って」を使うのは、この歌が耳の奥にすり込まれているからだ。字面として「かと言って」が好きというより、歌から入ってきているので、その音が好きなのだ。

 では、なぜその音が好きなのか。この歌のサビの部分のイメージが強く定着しているからではないかと思う。

 <ある日 踏切の向こうに 君がいて 通り過ぎる汽車を待つ 遮断機が上がり 振り向いた君は もう大人の顔を しているだろう>

 解釈してしまうとつまらなくなるが、もう戻らない瞬間、時間への哀訴、むなしさがある。10代でも50代でも、おそらくもっと年をとっても、同じようにふっと自分の内側から顔を出してくる無常観。生の短さ、はかなさをリアルに感じさせるフレーズだ。

 こうした歌詞に一定期間引き込まれ、頭の中に描かれたイメージがしっかりとあるからこそ、「かと言って」が耳に残る面もあると私は思う。もちろん、「かと言って」の音の衝撃もあるが。

 かぜ耕士作詞、小室等作曲の「愛よこんにちわ」も似たような形で、その詩がいつまでも耳に残っている。

 <恋した二人の ほほ笑む姿は みなもに投げた石 誰かの心に 静かに広がる ほほ笑みつくる 例えば二人は それには気づかず ふくらんだそよ風>

 恋愛中のカップルが互いを見つめ合いほほ笑む姿を見ると、その気持ちが周囲にも広がっていくという心地よさを描写している。

 次のサビの部分はこう続く。

 <愛よ こんにちわ ほほ笑みの言葉は きょうから明日へ 明日から永遠(とわ)へと 続いていく言葉>

 この歌で私が一番好きなのは「例えば二人は」の「例えば」という音だ。

 でもよく考えてみると、この「例えば」は必要ない。周りの人がそこに「愛の空気」を感じるまではいい。その空気を当の二人が気づかないというくだりに、なぜ「例えば」を入れる必要があるのか。「二人は」だけでいいのではないか。

 でも、やはり音の勝利だ。小室等の透き通ってもかすれてもいない、老いたような若いような声で、曲がちょうど盛り上がるところで「たとえば、二人は」と強く歌うところに、脳が強い刺激を受ける。私はこの曲を14歳の時にラジオで聞いただけで、繰り返し何度も聞いたわけではない。でも、のちに恋愛をする度に、それがほのかな片思いであっても、この恋愛讃歌が耳によみがえった。そこに描かれた「愛の空気」をリアルなものとして感じた。詩全体を読み、意味として理解したというより、「例えば」という音によって詩の世界に誘い込まれたと言った方が正確だ。「例えば」がなければ、割とすぐに忘れてしまう歌だったかもしれないと。

 私は長く文章修業を続けているが、できるだけわかりやすく書きたいという考えがあるだけで、意図したり、計算して言葉を並べているわけではない。ただし、「かと言って」や「例えば」のように、なんてことのない言葉の使い方に妙にこだわる。例えば「さにあらず」などという接続語はひどく下品に響き、決して使いたくはない。

 そこに理屈はない。単に好き嫌いの問題だ。やはり、子どもの頃から聞いてきた歌の響き、言葉が脳を埋め尽くしていて、そこから自分の言葉を作っているからだろう。

 

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