自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

県民の声、記者次第

2014年11月号掲載

毎日新聞地方部編集委員藤原章生(当時)

 

 先日、報道関係者の集まりに呼ばれた。福島を報じている者同士、自由に意見を交わすのが目的だという。会場に遅れていくと、何人かがすでに発表を終え、10数人が意見を交わしていた。流れが読めなかったが、民放テレビの女性記者が不平をこぼしていた。

 「県外に自主避難したお母さんたちの不安を取材しているが、一向に取り上げてもらえない。私の力不足もあるが、こういう題材をオンエアしないムードが局にある」と、そんな内容だった。

 50歳代の新聞記者がこう助言した。

 「どこも幹部は東電や官僚とつながっている。それをどう打破するかだ。これは闘いなんだよ。とにかく諦めず、取材を続けるしかない。捨てられても捨てられても、書くしかないんだよ」

 私を呼んでくれた記者を含め、いわゆる「暴露派」報道陣の集まりだった。私も暴露したいし、現に海外ではそんなことをしてきたが、なかなか思考がそちらに向かず、福島ではさほどスクープを書けなかった。だから、自分はちょっと浮いた感じかなと思っていたら、「藤原さん、どうですか?」と司会役に意見を求められた。「どう、といいますと?」「いや、何でもいいです。福島での取材で気づいたことを話してもらえれば」

 私は「先ほどの自主避難者という言い方。首都圏や遠くは沖縄に避難した人が注目されがちだけど、県内にも結構いる。中でも興味深いのは、この春に避難指示区域が解除された田村市原発20km圏、都路(みやこじ)地区の人たちで、彼らはほとんど帰っていない。政府から『すぐに避難せよ』と言われ仮設住宅などに逃げ込んだが、4月1日の解除と同時にただの人、つまり、目を覚ましたら自分は自主避難者になっていた。そういう人たちの方が、県外の母親よりは深刻な印象がある」

 「郡山で暮らし始めたころは低線量被ばく、年間20ミリシーベルト以下の被ばくについてずいぶん勉強をした。でも、結局よくわからない。まず大丈夫だと思うが、絶対安全という結論は出ない。ただ、郡山はせいぜい年間2、3ミリ以下。自然放射線で、そのレベルの土地は幾らでもあるし、その10倍の所もある。さほど問題はないという考えに至った」

 「ただし、人間は機械ではない。感情があるので、受け止め方は千差万別。そこで最初のころは仮設住宅の人や郡山市民にインタビューして回った。そして気づいた。記者というだけで、こちらが不安や疑いなど、わかりやすい声を誘導していないかと。そこで、とにかく人の声に耳を傾けた。すると、驚いたことに放射線原発の話はほとんど話題にならない。被害や失った土地、賃金、時間に対する賠償の話は当然当事者の口をついて出るが、放射線についてはほとんどない。むしろ、その手の話をするのは報道陣かブログなどを書いている人、市民運動家、役所の担当者くらいだった」

 「それを脳内風化という言葉でわかろうとする記者もいる。嫌なことは考えないようにしようという人間の知恵だと。しかし、そうではない。さほどの危険はない、これ以上ひどくはならないとわかった段階で、飽きたのだ。むしろ、日々の出来事や、町にどうやって人を引きつけるかといった話が中心になる」

 「赤ん坊を抱えた母親たちも、県外から戻ったばかりの人は放射線を気にするが、次第に慣れ、話題はもっぱら子供がいつハイハイしたかといった話になる。遠慮しているのではない。ごく普通にそうなったのだ」

 そこまで一気に話すと、場は白けたようだった。「政府による陰謀論」で終始した、それまでの流れと違っていたからだ。すると、先ほどの記者がこう反論した。

 「それが郡山市民の反応だと一般化はできない。あくまでも藤原さんが聞いた声に過ぎない。私が取材している浜通りのA市では、女子高生から老人まで皆、放射線に不安を抱いている」

 私はこう応じた。

 「浜通りと郡山では温度差があるし、私は一般化するつもりはない。そもそも一般化などできない。私が聞いたのは多くて200人ほどだ。ただ違うのは、彼らに何も聞かなかったこと。彼らから自然に漏れ出た言葉に耳を傾けただけだ」

 彼は「暴露派」であり、当局の不正を暴くのを信条としている。例えば、放射性物質が底にたまっているのが明らかな、ため池やプールの汚泥を夜陰にまぎれて取り出し、市民団体に計らせ「1kg当たり何十万ベクレルもの汚泥」といった見出しの記事を書く。だが、それはわかり切った話なのだ。だからこそ、当局はプールに水をはり、放射性物質の飛散を防いでいる。

 私はそういうことをあえてしない。関心があるなら、市役所に、「あのため池の汚泥の放射能計ったら」と言うだけだ。

 もう一つ事例を上げれば、除染で出た微量放射線の廃棄物を業者が公園の脇に置いたとしよう。彼は「通学路脇に放射性廃棄物」と糾弾する記事を書くはずだ。私なら当局に行って「あそこにあるの、大丈夫ですか?」とまずは聞くだけだろう。

 つまり、彼が話を聞く人たち、あるいは彼を取り巻く人々と、私を取り巻く人々、両者は違うのだ。大事なのは、もし「一般化」や「平均」があるというなら、彼と私のどちらが、より「一般化」に値するかということだ。

 

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