自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

道の奥にいた男

2013年8月号掲載

毎日新聞郡山通信部長/藤原章生(当時)

 

 最近、都路(みやこじ)という村によく行く。郡山から車で1時間半の小さな村だ。漢字の「都(みやこ)」に道路の「路(ろ)」と書く。福島県浜通りから内陸に入った山あいにある。東京電力の福島第1原発を中心にした20km圏に当たる。原発直後は「警戒区域」となり、今は「避難解除準備区域」と呼ばれている。

 茨城から福島を貫き宮城県まで、標高1000m弱の山が南北に連なる。その阿武隈高地の懐にある村で、その地の7割は常緑樹を主とする山林に覆われている。

 都路と言っても、耳になじみのない人も多いだろう。第1原発がある双葉郡大熊町(13年6月時点での推計人口1万1000人)や、その南の富岡町(1万4000人)、北側の双葉町(6300人)、浪江町(1万9000人)、あるいは川内村(2600人)はよくニュースに登場する。だが、人口3100人ほどの都路村は2005年の平成の大合併田村市の一部となったため、その名が埋没してしまった。

 先に挙げた町や村の住民は原発事故直後から現在にかけ、一部を除き全村避難が続いている。

 田村市の大半は避難を免れたが、この都路だけは、事故直後の2011年3月12日、原子力災害対策特別措置法に基づき、当時の菅直人首相が避難指示を出した。

 私が都路に通うようになったのは、この村がこの6月末、最初に国発注の除染工事が「完了」した土地だったためだ。カギ括弧をつけたのは、「ひとまずこれで終わり」としたい環境省に対し、住民の多くが、「まだ足りない」「全然放射線量が落ちていない」と引き続き除染を求めているからだ。

 「何度も繰り返し除染をします」「まだ手をつけていない広大な森も山も全部やります」などと国は言えないし、それをやることに意味があるのか、という疑問も出てくる。

 思い切って政府が、「もうこの汚染地は国が買い取り、放射性廃棄物をかき集める地にします」と発表し、故郷を追われた住民を手厚く補償すればいい、という意見も最近は聞かれる。だが、政府も住民も誰もそう簡単には割り切れず、月日ばかりが流れ、村はぼうぼうと生え続ける草木に覆われる。

 中米のグアテマラにあるティカルというマヤ遺跡に行ったとき、年月を経て、古代都市が密林の海に沈んでいくさまを見て、「ジャングルと文明の攻防戦」という言葉が浮かんだ。

 今はまだしも「帰還」という言葉にすがる住民がいるが、いずれ誰も訪れなくなれば、そこはティカルと同じような、「かつて文明があった村」として森の中に消えていく。

 そんなことを考えながら、都路を車で走っていたら、街道脇に「行司ヶ滝」という看板があった。村にある数少ない名所の一つのようだ。矢印に従い、脇道へと進んでいくと、ほどなく舗装が砂利に変わり通行止めとなった。

 車から降り沢の方を見ていると、背後に何か動く気配があった。

 振り返ると、20mほど先の山の斜面の深い森をバックに、男が所在なげといった風情でゆっくりと下りてきた。白いワイシャツにグレーのズボン、白い野球帽をかぶっており、昭和30年代の小学校の先生のようなたたずまいだ。

 男は人に会うのが少し恥ずかしいのか、あらぬ方を見ながらゆっくりと歩いてくる。「滝の方に行きたいんですが」

 気まずさを紛らわそうと、声をかけると、男は一瞬きょとんとした顔をして、「ああ、先の道が台風で崩れたから」と答えた。

 男は隣の大熊町に暮らしていたが、原発事故で叔母が暮らす都路に一度逃れ、すぐに叔母を連れて、田村市の中心、そして郡山へと逃れた。昼間だけ立ち入りが許されてから、叔母の運転手として滝に近い農家にときどきやってくる。大熊町にいたときに始めた地蜂(じばち)の養蜂をこの森で再開したばかりだという。

 見ると、森の入り口の5本ほどの杉の木に直方体の箱が据えつけられ、蜂がブンブンと羽音を鳴らしていた。西洋ミツバチではなく、自然の中にいる日本ミツバチを箱に誘い込むのだそうだ。

 「蜜はいつできるんですか」「2、3年、いやもっとかかりますね」「できたら、売るんですか」「いや、自分で食べて、あとは友達にあげるんです」

 別に商売でやっているわけではないようだ。男に原発事故のことや、除染の問題、村がもう二度と前の姿には戻らなくなってしまったことなど、いわゆる、新聞記事になりそうな話を聞きたいと一瞬思った。

 だが、やめた。会って間もない自分が、そんなことを聞くことが卑しく思えたのだ。それは、それだけ彼の顔が特別なものだったからだ。

 五木ひろしの顔を少し小ぶりにして、そこから、にやけたような軽薄な部分を取り去ったような端正で素朴な顔からは、恨みや悔い、憎しみといった感情が、細いしわ一本にも刻まれていないようだった。

 そこを去り、沢の方へと歩いて再び戻ってくると、男は叔母と並んで私を待っていた。

 「モリアオガエルの巣が変な所にあるんですよ」。見るとさびだらけの小型のショベルカーのたまった水の上に卵がぶら下がっていた。

 「こんな車の所に産みつけるなんて、私たちが帰らないってわかってるんだね。今年はモリアオガエル、どうしてるかなって思ってきたんですよ」

 叔母さんがそう言うと、森の奥でカッコーの鳴き声がした。

 生物、動物、人間が静かに森に包まれていた。まるで何もなかったかのように。嫌なことなど何も起きなかったように。

 

 

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