自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

望遠レンズと広角レンズ

2013年6月号掲載

毎日新聞郡山通信部長/藤原章生(当時)

 

 アフリカにいたころ、こんなことを思った。
 貧しい人たちを見るとき、例えば、ナイジェリアの貧民街を高台から遠望すると、そこにうごめく人びとの暮らしがあまりにひどく思え、近づくのが恐くなる。
 意を決して降り立ち、群衆の中を歩いて行く。肉切り包丁を振りかざし、脅してみせたりする人も中にはいるが、大方は彼ら同士で冗談を交わしながら、なんとも言えないいい笑顔で迎えてくれる。
 当然と言えば、当然。彼らにとって、よそ者の到来は一種の「ハレ」であり、何となく過ぎていく日常に差し込む珍事だからだ。異形の者の到来にかすかに興奮し、うれしくなり、笑顔を見せるのが自然なのだ。単に「アフリカの人びとは貧しくとも明るい」というわけではない。
 そんな街に通い親しい人ができ、ひょんなことからしばらくそこに住んでみようということになる。そこには当たり前のように喜怒哀楽があり、私自身の日常がそうであるように、ごく普通の人生が淡々と送られている。
 些細なことでけんかをしたり、酒におぼれたり、嘘や小ずるいだまし、盗みに苦しみ、人のねたみ、そねみで気持ちを擦り減らす。一方、教育を受けてはいないのに驚くほど物のわかった賢者がいたり、初めて目を合わせたときの親和、慈悲、憐憫といった人同士の感情がみずみずしいほど深かったりする。
 そんな貧民街での暮らしを終え、竜宮城から地上に戻る浦島太郎のように再び高台に戻り、街を遠望する。
 そのときにはもう前と同じ感慨はない。そこの暮らしを単に「ひどい」という言葉で突き放すことはないし、仮にそうは思っても、一つの形容詞では語れない。語っても、それは真実ではないことにすでに気づいている。
 遠くからではわからない。人の中に入らなければ。望遠レンズではだめ。できれば単焦点の35㍉くらいの広角レンズで対象にできるだけ接近しなければ、ということ。

 この4月、福島県郡山市に移り住んだ。早速市長選があり、ばたばたと1カ月が過ぎ、気づいたことがいくつかある。
 来た当初、中心街に人がほとんど歩いていないのを見て、私は「放射線を怖れて閉じこもっているのか」と思い込んだ。3歳くらいの女の子の手を引いて歩く夫婦が少しみすぼらしい格好をしていたため、「貧しい家庭はあまり気にしていないのか。でも、あんな子が粉じんの舞い上がる道を歩かされている。犯罪じゃないか」と思ったりもした。街に、というより私の頭の中に悲哀感という偏見が漂っていた。
 中心街に人通りがないのは単に寒いからだった。桜が咲き、「ラーメンまつり」などの催しが始まった開成山公園は人でにぎわい、校庭では中学生が生き生きと部活に励んでいる。「ここまで無頓着でいいのって思うほど、親も子も放射線を気にしなくなっています」と高校教師が言うように、「悲哀の街」は望遠レンズの決めつけにすぎなかった。
 郡山市郊外の富田町に、原発事故から逃れてきた富岡町民の仮設住宅がある。そこを訪ねたとき、「木曜と土曜の朝に、お茶会を開いてますから、来ませんか」と誘われ、ちょくちょく顔を出すようになった。主に高齢女性を中心に30人ほどが幾つかに分かれ、コーヒーやお茶、菓子を手にあれこれ話している。私は隅に座り、誰ともなく話を聞く。時々、歌手や手品師が来て、あれこれ余興をやっていく。私に芸はないが、誰かの慰めになればという思いでそこにいる。
 一見するとみな朗らかで、「これ食べなさい」と気を遣う。3000円で飲み放題、つまみ食べ放題のカラオケに行こうと誘ってくれる年配の男性もいる。
 被災から2年、「仮設の人びとは希望を失わず、明るく気丈に生きている」といったフレーズが浮かんでくるが、そうではない。お茶会を終えるとお年寄りたちは三々五々、小さなプレハブへと帰っていく。その後ろ姿に、このフレーズは似合わない。
 「みんな暗いよお。ここでは元気に、にぎやかにやってるけどね。狭い部屋に戻れば、暗い顔してるよ。どーんと来るんだよね。俺もそうだもん。この先どうなるんだろうってのもあるし、全部なくなったし。俺と一緒に住んでる年寄りは、沈んでて表に出てこないしね」
 少し親しくなった50代後半の男性がそう話した。
 彼らがどんなふうに生き、何を思っているのか。本当のところはわからない。
 人は慣れる動物だ。新しい環境に、低線量被ばくに、避難者としての立場に、人は慣れる。慣れは本人にも他人にも都合がいい。遠くにいる人は、その人を静かに忘れることができる。「あの人たち、慣れてるから」と。
 慣れとはなんだろう。
 慣れとは、諦めでもある。いじめられている少年少女は、それが当たり前の日常だと諦め、自分だけの空想に浸り、現実から逃げる。差別される人たちは「まあ、そんなものだから」と諦めることで自分を日常の嫌な現実に慣らしていく。これが普通なんだと。
 でも、人間には感情がある。
 そんなふうに割り切って生きられるのか。「慣れは確かにある。でも底にあるのは怒りだよ。それは東北人全般に共通の心理かも知れない」。福島市に暮らす元公務員はそんなふうに話したが、怒りといっても、その表れ方は人さまざまだ。
 慣れと怒り。怒りにも慣れるのか。あるいは怒りは慣れを突き破ってマグマのように噴出するのか。この日常にどっぷりつかり「当事者」にならない限り、それはやはりわからない。

 

 

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