自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

マイナーなのに堂々としている人

2020年9月号掲載

毎日新聞夕刊報道グループ記者(当時)/藤原章生

 

 マイナーとメジャーとはどう違うのか。野球なら簡単だが、テーマとなるとそう簡単に切り分けられない。

 先日、かれこれ十五年ほどつき合いのある編集者の女性から「藤原さんって、本当にマイナーなほう、マイナーなほうへと行きますね。もっとメジャーなものを追ってくださいよ」と言われ、絶句した。何を言われているのかわからず、うまく言い返せなかったが、2日間ほどこの言葉が心に残った。

 彼女は2年ほど前に現役の編集者を終えた人で、しばらく重い病気と格闘していたため、久しぶりの夕食ではもっぱら近況の話となった。私はぼんやりとだが、中国語をカタコトでもいいから話せるようになりたいので来年以降、中国に留学してみたい、そして、中国語をマスターした上でアフリカに行きたいといった話をした。

 すると彼女は「中国より、これから伸びるのはベトナムインドネシアですよ。日本との関係も強くなるし。そちらに行かれた方がいいんじゃないですか。大体、中国人は嫌われてますよ」と疑問をはさんだ。

 私の中国行きも一種の直感、思いつきであり、戦略を練った末という話ではない。実際、身内に病人が出たり何か突発的なことがあれば、すぐに泡と消える夢にすぎない。ただ、理屈を言えば、国家元首への接触から農業指導員まで上から下まで中国が入り込むアフリカ諸国を取材するには、中国語を身につけておいた方が有利ということだ。

 また、いまだ知らない中国に渡ってみれば、あの広大な国をフィールドにしたいという学習欲、好奇心も目覚めるのではないかという期待もある。こっちの方が大きいかもしれない。

 ところが彼女に言わせれば、「アフリカなんてマイナーな世界のこと、誰が読むんですか」ということになる。

 「ではメジャーな話って何ですか」。そう聞き返せばよかったのかもしれないが、そこで議論をしても実りはないし、得策ではないと気づき、話題は自然とずれていった。というのも、これまで彼女の口から「これをやれ」という具体的な話が出た試しはなく、メジャーなものが何を指しているのかは彼女自身もわかっていないことを私は薄々わかっていたからだ。

 私は新聞記者になって2年ほどしたころ、「エッセーみたいなものを書いてみませんか」と長野県の詩人に言われ、彼がいた同人誌に「カムチャツカのやせ犬」という400字詰原稿用紙で20枚ほどの散文を書いた。

カムチャツカに登山に行った際、食糧難を伝える新聞記事にやせた犬の写真が出ていて、その犬を探し回ってみたが、結局見つからず、実は虚構、プロパガンダではなかったのか、という話だった。

 記事以外の長文を書くのは初めてのことだった。以後、半年に1本ほど書き続け、詩の雑誌社が原稿を依頼してくるきっかけになったのが同人誌に載った「インディオを視る」という話だった。メキシコを撮る写真家2人を比べ、対象への、先住民の日常へのまなざしについて考えた写真論だった。

 つまり、最初の最初から私はマイナー思考なのだ。ガルシア=マルケスの作品を題材にしたときも、自分では初めてメジャーな対象を扱ったと思ってはいたが、よく語られる割に実は読んでいる人が意外に少ない日本ではマイナーな存在であることに本を出してから気づいた。

 アフリカやラテンアメリカに魅せられたのも彼女の言う通り、マイナー志向、端っこ好きが高じた面は確かにある。非日常を追えば、どうしてもそちらに傾いてしまう。

 イタリアに暮らす機会を与えられたが、そこの庶民感情や映画には興味を抱いたが、ローマ時代の遺跡やルネッサンス絵画、オペラ、食、ワインなどメジャーっぽいものは、観光客なみに楽しみはしたものの、長く取材するほどハマらなかった。

 王道を避ける。大劇場より名画座を、ベストセラーより好事家の読みものをという趣味は単にへそ曲がりということではなく、新聞記者という職業の影響もある。

 大概見ていると、大方の仲間たちはマイナー志向だ。誰もが目を向けるものではなく、誰も知らない傑物を発見する。みなが知っている大事件を追う場合でも、正面から報じるより、見落とされていた新事実を探り当てるのをよしとする職業である。

 アンドレ・マルローが言うように「真実は隠れたところにある」のだとしたら、マイナーな世界を追うことこそ、ジャーナリズムの王道ということだろう。

 そうは言っても、読む人あっての書く人である。ある程度のマーケティング感覚は必要だろう。書きたいからではなく、確実に売れるから書くという発想だ。

 最近私にとって意外だったのは、黒人差別に抗うアメリカの運動で、若い世代が奴隷制植民地主義など歴史に目を向け始めたことだ。これまで人種差別の問題を追ってきたため、私が取材し体験してきた差別を、歴史や地誌を織り交ぜながらわかりやすく書いてみたらどうだろうと思い立った。

 そんな話を彼女にしてみたら、「差別って言葉自体がマイナーですよ、日本では。イジメならまだしも読まれるかもしれませんけど」という話で全く興味を示さなかった。差別の話をするのもマイナーなことなのだ。なかなか難しい。このままでは「マイナーなのに堂々としている人」になってしまいそうだ。

 

●近著

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