自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

森一久さんのこと(その1)

2011年2月号掲載

毎日新聞ローマ支局長/藤原章生(当時)

 

 昨年2月3日、森一久さんが亡くなった。ローマに暮らす私はしばらくたって、それを知った。海外暮らしで残念なのは、人の訃報に接した時だ。死に目に会えなかったのもあるが、日本に住んでいれば、その後も会えた、そして、もしかしたら、その交流で、その人がもう少しは長生きしたかもしれないと思うからだ。そして、こんなに早いなら、なぜ電話をしなかったのか、と悔いが残る。
 森さんの訃報は小さくだが、ネット上に流れた。「weblog 死亡欄」というページにこう記されている。
 <元日本原子力産業会議副会長の森一久、肺炎で死去、84歳。1926年広島生まれ。京都大学在学中に広島で家族とともに被爆湯川秀樹博士の下で理論物理を学び、大学卒業後は中央公論社で9年間記者として原子力問題を取材する。56年電力会社や原子力関連企業で作る「日本原子力産業会議(現:日本原子力産業協会)」設立時に職員となり、同会議事務局長、専務理事を経て、96年副会長となる。>
 私が森さんを知ったのは亡くなる3年前の2007年1月のことだ。そのとき、毎日新聞の夕刊編集部にいた私は、湯川博士(1907~81年)の生誕100年に合わせ、長文記事を書くよう上司に言われた。新聞の仕事はあわただしい。私は膨大な著書や評伝をすぐに買いこみ、1日数冊のペースで読みながら、博士を知る人々にインタビューを始めた。森さんはその一人だった。
 JR新橋駅の烏森口を出て南に向かうとほどなく塩釜神社がある。森さんの事務所はその前のビルにあった。私は約束より20分ほど早く着き、鳥居にもたれかかり、読売新聞の元社主、正力松太郎の評伝「巨怪伝」(佐野眞一著)を開いた。小さな公園のような趣の境内には、朝の11時なのに、サラリーマンやカップルが暇をつぶしているふうで、その足元に鳩が数羽いた。1月なのにぽかぽかしていた。
 人との出会いは本との出会いと似ている。特別の人との出会いの場合、その人や本の中身とは関係ないそのときの状況、前後の光景や、自分の中の雑念をくっきり覚えている。

 「巨怪伝」を読んでいたのは、湯川博士原子力委員会を辞めるときの逸話を調べていたからだ。研究肌の博士は、政治決定に科学者がただ名を連ねてお墨付きを与えるような役割が耐えられなかった。
 博士の愛弟子ということで、中央公論社の編集者だった森さんが原子力委員長になるよう説得し、博士は渋々その役を引き受けた。

 「正力が『研究などしなくても外国から炉を輸入すればいい』と言っている。そんなことでは俺が入った意味がないじゃないか。大体、君がやれというから…」「先生、発足早々に委員長が気に入らないからと辞めるなんて。子供じゃあるまいし」(森さんの述懐より)。森さんと湯川博士のこのやりとりが博士の人間的な面をよく描いていると思った私は、森さんに半世紀前の話を聞きにいった。
 「巨怪伝」には森さんが快活な口調で話すくだりが出てくる。これを森さんにたずねると意外な顔をした。「ああ、そんな本が出ていますか。知りませんでした。でも、誰かに聞いたんでしょう。僕はその著者には取材を受けてませんから」
 私はそれを聞き、なるほど、と思った。上下2巻の大著だが、筆者は直接取材をしていない。データマンか助手が話を聞いたのか、別の文献の引用を使ったのだと思った。よくあることだし、本としては一気に読ませる面白い物だから、そんな舞台裏は読者にとってはどうでもいいことだ。でも、自分は直接話を聞いていない人のセリフをこんなふうにいきいきとは書けない。なぜ、そう書けてしまうんだろう。まして、書かれた人がそれを知らないとはどういうことだろう。
 そんな雑念めいた疑問が今もありありと浮かぶのは、森さんとの出会いが特別なものだったからだ。
 湯川博士との思い出を聞き、1時間ほどでインタビューを切り上げると、しばらく世間話をした。81歳の森さんは若々しく、すらっとしていて、知的で温厚な人だった。若いころ、記者や編集者をしたのだから、人に接するときの馴れ馴れしさなど、俗世間にもまれた垢が染みついているものと思っていたが、ずっと科学者をしてきたような、やや浮世離れした高貴なところがあった。
 森さんと別れたあと、新橋駅から地下に向かって階段をすたすた駆けおりたこと、地下道にネクタイなどが並んで売られていた様子をよく覚えている。それらはもちろん私自身が見たものなのだが、どこか自分を別の目で少し上から見ているような残像となっている。
 特別な出会いは脳神経に何かの刺激を与え、その前後の記憶が普段とは少し違う形で残るのかもしれない。
 森さんがどう思ったのかは知らないが、帰り際にこう言った。

 「やあ、きょうはとても楽しかった。あなたとはまた会えそうな気がしますね。あなたは現役だから忙しいでしょうから、私の方から連絡しますよ。また会いましょう。ちょっと話したいこともありましてね。また次の機会にゆっくりと」
 原稿のことで頭の半分は塞がっていたが、私は森さんに出会えたことが嬉しかった。自分の父親より少し上だが、年齢など関係ないとすれば、これは一つの友情ではないかと思った。
 ほどなく森さんから連絡があり、私は再び、新橋を訪ねることになる。

=つづく

 

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