自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

大災害を目にした最初の直感

2011年5月号掲載

毎日新聞ローマ支局長/藤原章生(当時)

 

 前回の話を読んでいただいた方にお許しいただきたいのは、話が横道にそれることだ。シリーズ「森一久さんのこと」を先に延ばし、今回は大災害のことを書きたい。原子力に携わった森一久さん、湯川秀樹博士の人生を考える上でも、この横道は無駄にならないし、私自身、いま書いておきたいからだ。
 前回の原稿を書き上げたとき、私はリビア国境のチュニジア側にいた。そしてリビア領に入った翌朝、日本の大地震を知った。朝、衛星電話で記事を東京の新聞社に送ると、「地震」というタイトルの一斉メールが届いていた。映像を見るため私は屋上から階下におりた。ゲリラのインテリ頭(がしら)はまだぐうぐう寝ていた。テレビをつけ、衛星放送をBBCにすると、津波宮城県の畑を一気に飲み込んでいく映像がLIVEという文字と共に現れた。
 驚いたのは確かだが、どういうわけか嫌な感じがしなかった。そして、熱いものが込み上げてきた。「嫌な感じがしない」というと誤解を招くかもしれないので、ここで話を10年前にさかのぼりたい。
 2001年9月11日。アメリカがテロに襲われたとき、大型の旅客機がツインタワーを突き刺した瞬間を、私は東京の職場にあるCNNテレビで見た。「パーン」という音を生で聞いている。その瞬間から私は事実をまとめる仕事に追われた。しかし、それは仮の自分、もう一人の自分、本当の自分はテープが早回転するように、頭の中であらゆることを考えていた。そして出てきたのは、「時代が変わる」という直感だった。するとあれこれ嫌なことが浮かんだ。アメリカ人による報復。戦争。どこまでも高くなる国境の壁。差別。宗教、人種、あるいはただ見た目による差別。アメリカの象徴がやられたということは、あらゆるものを包み込む自由の地はない、自由は木端微塵となった……。
 そのビルで死んだ証券マン、掃除係のラテンアメリカの移民らを思いながらも、歴史が動くことへの焦り、もう戻れない過去への郷愁を私はすでに感じていた。
 あわてて会社に戻ってきた同僚には、酒が入っていた者もいた。そのうちの2人がビルが崩れ落ちる映像を目にし、うなり声を上げた。私はそれを確かに聞いた。「よーし、やったれー」。私は耳を疑った。単に大事件や火事場が好きという理由もあるだろう。しかし、それだけではないと感じた。アメリカがやられて、いい気味だといった思いがあるのだと思った。現に、しばらくしてその話をしたところ、戦中生まれの元新聞記者は私にこう言った。「正直言って、僕も『ザマーミロ』と思ったよ」
 その人は私の恩師だった。しかし、常に何かを批判し、それを多くの日本人が省みないことを嘆く人だった。「ダメなんだよ」「わかっていないんだよ」が口癖の人だった。そして、語る言葉の大方は愚痴だった。この人の傍にいると居心地が悪くなる理由が、「ザマーミロ」という発言ですべて解けた。なぜそうなるのか。要するに根がネガティブなのだ。
 あの晩、CNNテレビの英語を必死になって聞き取り、その翻訳を紙に殴り書きして同僚に渡していた私は、映像の出来事より、目の前の男たちの反応にひどいショックを受けた。
 なぜ、そんな風に反応するのか。このテロでやられたのはアメリカかも知れない。しかし、殺されたのは無辜の民だ。そして、矛先は我々、あるいは人類に向けられている。なぜ、それがわからない。なぜ。
 自分はまだいい、どこで暮らしたって、どうなったって何とか立ちまわっていくだろう。しかし、子供たちはどうなる。彼らはもうこれまでのように自由に国境をまたげなくなる。アメリカに出入りできなくなるかもしれない。世界はますます息苦しくなる。国境の壁の向こうにひしめく群衆の姿が脳裏に浮かんだ。
 しかしもう後戻りはできない。子供たちはこの時代を生きていかなくてはならない。そう思うと、私は気がめいった。
 そのときと比べると、今回は全く違っていた。
 最初に浮かんだのは「ついに来た」という言葉だった。小学校4年の冬、私が暮らした東京・足立区の同級生の間で「10月30日に大地震が来る」という噂が広まった。私はすぐに持ちだせるよう宝物をまとめ、水と乾パンを用意し、そのときを待った。しかし、午前零時を回っても、朝になってもそれは来なかった。
 30代のはじめ、千葉県の船橋市に暮らしたときは、隅田川の橋が落ち、火の海となった対岸にいる家族の下へ帰れない夢を何度もみた。闇の中、相次いで爆発する火山について、塹壕で原稿を書き上げ、東京に送ろうとしても全く電話が通じず焦っている自分、月の上をジャンプしながら必死になって何かを追いかけている自分、空から龍の背中を写真に収めている自分など、私の夢にはとんでもない自然現象がよく現れる。
 とうとう来たという感慨は、怖れながらも何かを待っていた幼いころの自分の感覚がそのまま表れたからだろう。そして、気づくと私は隣で映像を見ていたリビアの男に、聞かれもしないのに、こう話していた。
 「これが我々をつくったんだ。我々はこうしたことを経て、変わり続けてきたんだ。我々はそういう民族なんだ」
 人々を殺したのが人間ではなく大自然だったからだろうか。私は2001年のテロのときとは全く逆の思いを抱いていた。数々の犠牲の末、私たちはいい方向へと変わっていく。歴史は必ず、いい方向へと向かうと。

 

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