自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

森一久さんのこと(その4)

2011年6月号掲載

毎日新聞ローマ支局長/藤原章生(当時)

 

 記憶の仕組みを私はよくは知らない。不思議なのは、幾ら新しい記憶が積み重なっても、いつまでも脳みその奥へと退かず、何度も現れる記憶があるということだ。それは光景であったり、人の話し声、言葉であったり。ただ思うのは、往々にして、そのときに自分の感情がその記憶に重みづけをし、鮮やかさに差をつけるのではないかということだ。
 森一久さんとの最後も、そんな鮮やかな記憶として残っている。それは2008年2月のことだった。その日、私たちは東京・日比谷にある帝国ホテルのロビーで待ち合わせた。約束の時間に着くと、ロビーわきの椅子に腰をおろしていた森さんはすっと立ち上がった。
 「いやあ、お忙しいのに申し訳ない。あなたも大変ですね。今度はイタリアですか……。良かったですねえ……」
 私はその年の春にローマに赴任することになったことを森さんに告げていた。出会って1年がすぎていたが、結局、森さんが私に託した謎は解けないままだった。湯川秀樹博士は広島への原爆投下を事前に知っていたのかという問いだ。
 昭和20年5月初め、森さんと同じ広島市の出身だった京都大学治金学(やきんがく)教室にいた水田泰次さんは、担当教授の西村英雄教授に呼ばれた。そして、広島市の両親をすぐにでも疎開させるように言われ、一家は原爆をまぬがれた。西村教授の部屋には、物理学教室の湯川秀樹博士が同席していた。
 そのとき、西村教授は「新型爆弾」という言葉を使ったのか。水田さんには爆弾の話をされたという思い込みがあったが、私が聞き及ぶと、「いや、そういう言葉は言わんかったが、ただ事ではないという感じがあった」と答えた。
 この水田さんの証言だけで、西村教授が原爆投下の候補地を知っていたとは言い切れない。西村氏は戦後も水田さんにそのことは一言も話さなかった。
 もうひとつ明らかなのは、同じ部屋にいた湯川博士の方が、自分の教室の広島出身の学生、森さんに何も話さなかったということだ。
 師であり友人のようなつき合いの湯川博士の中に「弟子を助けられなかった」という負い目があったのではないか。そんな疑問を森さんは抱えていた。
 私は湯川、西村良教授が日記の片隅にでも、何か書き残していないか、遺族に当たったが、何もないという話だった。湯川氏の文献にも一通り当たったが、それを匂わせる表現は見当たらなかった。
 ただ、湯川博士は戦前、29歳の時に、こんな一文を残している。日食の日、たまたま実験室にいた湯川博士は、普段ならまず考えられない失敗から、やけどを負った。それに触れたくだりだ。「未開人は日食があると何か地上にも凶事が起こるだろうと驚き恐れた。われわれはこれを滑稽だと思う(略)われわれは(日食を)きわめて正確に予知することが出来る。しかしわれわれはしばしば自分の身の上に何が起こるか、その瞬間まで知らずにいることがあるという点においては、未開人とあまり選ぶところがない。学問が進歩すれば何でも予知し得るようになるであろうか≫
 (「日食」、散文集「目に見えないもの」に収録)
 親友の西村教授は教え子に、情報を教えた。だが湯川博士はそうしなかった。湯川氏は葛藤しながらも、単なる予知で人の運命を左右していいのか、という思想があったのではないかと私は思うが、答えはない。
 森さんと私が帝国ホテルで会ったのは、上京した水田さんと落ち合うためだった。水田さんを通し、西村教授の息子さんに証拠を探ってもらい、その答えを聞くつもりだった。だが、持病のあった水田さんはかなり悪い状態で、部屋から出てこられなかった。私たちは受付の電話で話をし、切り上げた。手掛かりはないということだった。
 「あなたにせっかく来てもらったのにねえ」。森さんが残念そうなので、私は「ちょっとお茶でも、どうでしょうか」とロビー脇の喫茶室に入った。
 甘いものに目がない私がショートケーキとコーヒーのセットを頼むと、「じゃあ、僕もそれをもらおうかな」と森さんも同じものを頼んだ。隣の席では40代位の上品そうな女性客3人が楽しげに話をしていた。
 私は気まずかった。あれこれ手を尽くしたとはいえ、日々の仕事に追われ、森さんのことに没頭したわけではなかったからだ。やり残した気分があった。そんな状態で日本を離れなくてはならない。
 私たちはケーキをつつきながら、イタリアのことなど本題とは関係のない話をした。「何年くらい行かれるんですか、3、4年ですか」「2、3年でしょうか」
 しばらくの沈黙のあと、森さんが嗚咽をはじめた。私は驚いた。同時に、森さんの感情の波に押され、茫漠とした原野に立たされたような寂しさ、空しさが襲ってきた。森さんは必死にこらえても、涙があふれ出てくるのをどうしようもないという顔でメガネをとり、白いハンカチで瞼をぬぐった。
 かすかに声が漏れたため、それを察した隣の女性たちが息を凝らし固まっていた。祈るような気持ちで言葉をかけずにいる私に、森さんはこう言った。
 「いや、失礼、失礼……、まったくどうしたことか、こんなことは初めてで…、いや、みっともないところをお見せしてしまって……」
 すると、嗚咽の波が再び、体の奥底から噴き出すかのように、こう続けた。
 「いやあ、お袋がねえ、お袋を……、助けてやれなくてねえ……」
 森さんはその2年後に亡くなった。
 涙の意味は何だったのか。そんなことを私はいまも考える。そこに一つの答えはない。森さんに言えなかったことを抱え続けた湯川博士の心情もきっと同じだろう。答えはない。
 ただ、私の記憶の中の森さんの奥には、見たことのない若い森さんがいる。原爆で一人助かった森さんは母を探し、街をさまよっている。その姿、嗚咽がこみ上げくるのを必死にこらえ、歩いているその一瞬を。

 (この項おわり)

 

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