自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

帰巣本能とノスタルジー

2017年5月号掲載

毎日新聞夕刊報道グループ記者(当時)/藤原章生

 

 安部公房の小説「けものたちは故郷をめざす」を読んだ時の興奮、感動を今もはっきり覚えている。高校1年の秋なので、かれこれ40年近く前のことだ。すでに「他人の顔」「砂の女」を読んでいて、すっかりこの作家にはまっていたが、高校1年の現代国語の課題で内外の1作家の作品を読みレポートを書くという課題があり、少し背伸びがしたかった私はロマン・ロランの「ジャン・クリストフ」を読み、長大な作品を読み通せたことが嬉しくなり、「戦争と平和」を読んでいた頃だった。

 当時は土曜になると、別の高校に通った中学時代の友人の家で、それぞれの学校や文学について明け方までよく駄弁っていた。ある時、私が安部公房の「他人の顔」が良かったと言うと、彼は「お前、すけべだなあ」と応じ、「安部公房ならけものたち…がいい」と勧めた。敗戦後、中国大陸の内陸のかなり奥、ソ連兵と中国人、朝鮮人が錯綜する凍てつく大地から、主人公の少年が日本を目指してひたすら疾走する物語である。

 彼の母親が満州育ちということとも絡んでいたとは思うが、凍てつく原野で現地の男たちが手鼻をかむシーンや熱々の饅頭(確か、まんとうというルビが振られていた)を盗む場面やオンドルについて彼は事細かに語り聞かせた。あの頃は映画にしても本にしても、テーマや意味を一切語らず、こんな場面があった、こんな語り方だったと、作品の細部を披露し合うだけだった。

 若い読者は斬新さや意義など大枠の話や作品解釈に興味がない。表現が実にビビッドに素直に入ってくるし、若い記憶力が細部をすかさず再現できるからだろうか。あるいは、若いが故に解釈する力が備わっていないとも言えるが、逆に見れば、大人は解釈に囚われているのかもしれない。「解釈病」である。初めて触れる世界をありのままに受け止められない。その意味や習得、どう役立つかでしかその世界を見ようとしない解釈病。それに比べれば、細部に魅せられ、読解にこだわらない若い読者の方がより小説を楽しんでいるとも言える。

 彼の家からの帰り道、本屋で新潮文庫の「けものたち…」を早速買い、井上陽水の「二色の独楽(こま)」というアルバムを聞きながら寝転がって読み始めた。すると10分もしないうちに、自分と同じ年恰好の語り手の描写に引き込まれ、ページを追うごとに頭の中に凍った暗い原野が構築されていった。

 この小説に感動したのは、ひたすら逃げ続ける少年のじりじりした焦燥感や少ない言葉による見事な風景描写もさることながら、やはり最後のどんでん返しだった。いい小説は読者が頭の中で何度も反芻するうちに勝手に加筆修正する。小説そのままではない、私の記憶の中の物語はこんな風に終わる。

 命からがら沿岸部にたどり着いた彼は日本に向かう帰還船に密かに乗り込もうとするが、最後の最後、たった一枚の鉄板に阻まれ船内に入れない。厳寒と飢餓の末の絶望の果てで、物語は幕を閉じそうになったかと思うと、彼は全身の力を振り絞ってその鉄板を叩き始める。がーんがーんと拳で叩き、壁の向こうが自分の故国だ、故郷だと心で絶叫しながら、ひたすら狂ったように叩き続ける。

 ここからは解釈になる。

 主に大陸で育った主人公は日本のことをよく知らない。なのになぜ彼はこれほどの執拗さで日本を目指すのか。敗戦でもはや居場所がない、生きるために逃げるしかないという状況からか。あるいは父祖の地への郷愁、愛国か。

 いや、主人公の動機には歴史、時空を超えた、より普遍的なものがあるはずだ。人間にもあるかも知れない帰巣本能だ。 飼い犬が迷子になった末、古い住所に戻っていたという話をよく聞く。人間にもそんな能力がわずかでも残っているのだろうか。そして、本当に丸裸にされて放り出された時、人が帰っていく場所こそが故郷なのか。では、その故郷とはどこにあるのか。

 私の身内は17歳の時、精神病院から脱走すると、自分が4歳から7歳まで育った大叔母の家に戻った。大叔母はすでに他界しており、もっと近い場所に自分の家もあったのに、彼は夜明け前からひたすら走り続け、気がつくとその山奥の家にたどり着いていた。

 この身内はすでになく、彼の心理を知るすべはないが、私なりに解釈するとこうなる。彼は大叔母に会いに行ったのではない。いくら精神を病んでいたとしても、彼女がいないことはわかっていた。彼は自分がいるはずの空間、逃げ込める場所に戻りたかったのだ。だが、その空間のあるじは見知らぬ人で、風景も彼が暮らした頃とはどこか違うものになっている。そこは発展から取り残された田舎であり、客観的に見れば風景はさほど変わっていないが、彼の頭の中にある風景が微妙に違う。だが、脳はその微かな違いを調整して記憶を塗り直し、整合性を持たせたりはしない。

 いや、できるが、それは欺瞞だとどこか自分でわかっている。その欺瞞をないことにすれば人は安心して、その故郷らしきものの中に浸れることはできるだろうが、自分に正直であればあるほど、それはできない。

 すると残るのは何だろう。幻滅である。失望、絶望、そして、そんなものを求めた自分に対する恥ずかしさだ。

 それは帰巣本能とは違うかも知れない。だが、その幼い頃の「心の風景」に立ちもどりたい、あるいは一瞬でもいいから垣間見たいという欲求は、常に幻滅に終わるものだとして、その直後に人はなぜ恥ずかしさを感じるのか。恥の感覚はどこから来るのか。ノスタルジーを自覚するからか。ありもしない「かつてあったかも知れない美しい自分の過去」を求める心を、つまり、自己愛的な自分を恥ずかしいと思うからなのか。

 

●近著

『差別の教室』(2023年5月17日発売、税込1,100円、集英社新書)