自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

よくわからない仙人とお化け(その3)

2011年10月号掲載

毎日新聞ローマ支局長/藤原章生(当時)

 

 奈良県天川村で、存在しないはずの白装束の男たち、よく日焼けした50年輩の男たちを私は目にした。「仙人」と呼ばれる山口神直さんの話を聞いていたとき、ドドドッという感じで私の後ろのふすまから入ってきた。そして、録音機、ICレコーダーに彼らのものとみられる笑い声を残していった。それから4年半がすぎた2011年の2月、気功の先生、孫俊清さんは「それは幽霊ではなく、本当の仙人だよ」と即座に言い切った。「声を聞いたらもっとわかる」と言うので、古いコンピューターの録音ファイルを聞いてもらった。
 私にはどういうことなのかわからないが、孫さんは録音や写真を通して、不可思議な存在と交信できるそうだ。録音は1時間半におよび、不思議な人々が現れるのは9分をすぎた辺りだ。山口さんが終戦直後の話をしているとき、ラジオの音量を落としたように声が急に小さくなり、履物を引きずるような音と共に3人ほどの「フッフッフッフ」という笑い声が現れる。そして、「○○○ナイセイザデッショ」といいった意味不明の言葉を誰かが言い、笑い声がさらに5秒ほど続き、録音は普通に戻る。
 それからも笑い声は6度にわたって響き、1時間をすぎた辺りで、誰かが立ち去るような足音とともに、彼らの存在は完全に消える。
 孫さんがわかったのは次の点だ。男たちは1000年以上も前に中国から日本に渡ってきた仙人で、嬉しくて笑っている。彼らのことなど話してはいないのだが、山口さんが「神さん」と言ったり、聞きおぼえたばかりの経文を私が唱えたりしたときに、彼らは大笑いする。孫さんはそれを、自分たちのことを言われて嬉しくて笑っているのだという。声の太さや重さから、不吉な笑いだと私は想像していたが、むしろその逆で、彼らはその場を喜んでいたそうだ。
 そして、もう一点。孫さんは彼らが中国に戻りたいのではないかとみていたが、孫さんの問いかけに、彼らはまったく応じなかったという。
 よくわからないのは、仙人という存在だ。私はこれまで禅や道教の本を読んでも、いま一つ、身に入らなかった。ところが最近、イタリアの文化人類学者、フォスコ・マライーニの大著「随筆日本」の一説にはっと身を起こすことがあった。まさに読書の妙味で、年来抱いていた疑問に一歩近づいた高揚感があった。
 長くなるが、一部省略しながら、ここで「随筆日本」の「禅、聖なる狂気」(松籟社版、501ページ)を引用したい。
 ≪禅とは何か? 禅は正統的な仏教からかけ離れ、独自の宗教とみなすこともできる。すべての仏教宗派は原始仏教とのつながりがあるが、禅宗では経典ばかりかあらゆる書物は無用とみなされ、悟りは知的な作業ではなく、「生きる」ことによってたどり着くべきものと考えられている。当然、教義は師から弟子へと口頭で伝えられる。
 禅の教え、道(中国で言うタオ)の開祖は、紀元6世紀はじめに中国に渡ったインドのダルマと言われている。このためインド起源説が議論になるが、中国をルーツとする教義に明らかに道教とのつながりがある。
 こうしてわたしたちの前に老子が現れる。老子孔子とともに、古代極東の哲学の基礎をつくった思想家で、プラトンアリストテレスの業績に匹敵する。孔子は理性、人間愛で成り立つ世界、法と礼による人生を説いた。一方、老子は直感、人と宇宙の関係で成り立つ世界、狂気としての人生を主張した。孔子が中国北部の出身で、痩せた畑、貧しさ、散文、大衆に基づいているのに対し、老子は南部出身で、豊かな水田、詩、個人主義をよりどころとしている。老子のタオは「道」を意味するが、のちに「法」の意味を得て、「自然」「最高理性」「絶対」へと変わる。これはちょうど、息や風を意味したギリシャ語のアネモスが徐々に、心の中に吹く風、つまり魂、アニマへと変わり、神と同じものと扱われたのと似ている。同じように東洋では、畑の中の小道がついには文明の内的宇宙全てを支える大黒柱になるにいたった。タオとは、そのなかに存在し、そこから生まれ、そこに回帰するあらゆる物事の原型、原理、理性であり、その変化に富んだプロセスに終わりはない。陰(女、水)と陽(男、大地)を通してはたらくタオの流れ、宇宙の流れに雑音のように介入するのが人の理性だ。人は自然から遠ざかり、自由に世界をつくろうとし、タオの均衡のとれた広がりを、自分の世界に置き換えようとする。
 ゆえに道教の賢者は理性、社会と、永遠にたたかうことになる。つまり、道教の理想的な人物像は、生の秘密の法則を理解した者、穏やかで善良な魔術師、「真の人間」である。彼は単純な、日常的な物事に喜び、矛盾することを平気で思ったり、口に出す子どものような存在だ。岡倉天心は「馬鹿者のようにおしゃべりしはじめ、しまいには聴いている者が賢くなる」と解説する。みずから足るを知り、隠遁する。葉を見て自分も葉になり、砂を見て砂になり、雲を見て雲になる。これがシエン、日本語で言う仙人だ。仙人は世界を捨てるではなく、見つけようとする。彼らは人間が築いた帝国よりも雲や霧、樹木を現実的とみなす。仙人のモットーは無為、つまりみずから生きる規範(ルール)に従い、簡素さを選ぶという教えだ。≫
 仙人というと高尚で近寄りがたい印象を抱いていたが、結構近づきやすい人のようだ。そう言われると、私が目にした男たちも、とっつきやすいオヤジという感じもあった。やはり、お化けといういうより仙人だったのだろうか。

(この項つづく)

 

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