自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

よくわからない仙人とお化け(その2)

2011年9月号掲載

毎日新聞ローマ支局長/藤原章生(当時)

 

 あのオヤジたちは何だったのか。といっても、私も十分オヤジなのだが、あのよく日焼けしたオヤジ、今の日本、特に東京あたりにはあまりいない「土方」といった風情の白装束の男たち。あの3人は何だったのか。
 仙人と呼ばれる神直(しんちょく)先生が「それは、ここで死んだ修験者さんの幽霊ですよ」と言ったため、一瞬納得はしたものの、背中にぞわぞわくる感じがなかった。どうもストンと落ちない感じだ。
 話はそれるが、私は「先生」と呼ばれる人々がどうも苦手だ。医者や教員が便宜上、互いを「先生」と呼び合うのはまだしも、小さな世界で取り巻きたちに持ちあげられる先生を見ると、居心地が悪くなる。私にとっては先生かどうかもわからない人について、周りから先生と呼ぶよう無理強いされている感じが嫌なのだ。それに習って、先生と呼ぶこともできるが、何だか嘘をついているような、不正直な感じがして嫌なのだ。
 大御所と呼ばれる作家にインタビューすると、必ず担当編集者が同席する。作家の発言に一々うなづき、「まあ、先生ったら」などと合の手を入れる。先生も、私の問いに答えながらも、「だよなあ」などと編集者に相槌を求める。「そう言い切れますか」などと私が反論しようものなら、編集者は「何言うの」ときっとした顔で睨んだりする。
 会社でも部下が上司を名前でなく職位で呼ぶ習慣があまり好きではない。私の最初の勤め先だった鉱山会社でも、直属の上司の係長を「Aさん」、その上の上司の課長を「Nさん」と呼んでいたら、宴会の席で隣の課の係長に「藤原君、Nさんじゃないだろ! N課長だろ!」と怒鳴りつけられたことがあった。しまった、と一瞬思いながらも、「じゃあ、お前も藤原君じゃなくて藤原職場長と呼べ!」などと心で叫び、その後もさして反省しないままここに至ってしまった。
 日本の伝統文化や武道、宗教の極意は大方、師弟関係で受けつがれてきた。武の道であれ、茶の湯であれ、師は絶対で、弟子はただ従うしかないというのが、ある種合理的なルールだった。私は文章書きだけでなく、知の世界でも、武道でも常々、自分の先生を探してきたが、しばらくは先生だと思っても、つき合ううちに欠点が見えてきて、次第に侮るようになってしまう悪い癖がある。そして、ほどなく生意気なことを言いだし決裂となる。
 そんな輩は師弟関係を築けず、結局は伝統から弾き飛ばされてしまうのかと淋しくもあるが、まあ、自分の心の声に従って生きる方がストレスもないだろうといまは開き直っている。
 さて、自称他称とも「仙人」の神直先生に再び会った際、またたずねてみると「それは幽霊ですわ。私も夜中なんかにしゅっちゅう追いかけっこしてますから」と、私が見た白装束の男たちをやはり幽霊だと決めつけていた。同行した紹介者の書道の先生も「先生ったら、幽霊の取り巻きまでいるんだから、大変ですねえ」などと持ち上げ、話は深まらなかった。
 それから5年がすぎた2011年の春、新たな展開が訪れた。摂食障害を患う18歳の娘の体調がおもわしくなく、スペイン在住の気功の先生、孫俊清さんにミラノで針を打ってもらった。お陰で容態がかなり良くなり、お礼もかねて、孫さんにローマの我が家に招いたことがあった。
 1961年に上海に生まれた孫さんは、1991年から日本に滞在して道教気功の健康法、治療法を紹介し、現在はマドリードを拠点に、スペインやイタリアなどの診療所を定期的に巡回して治療している方である。
 孫さんとその助手、そして私と娘の4人で軽い食事をしながら話していたとき、助手の女性がお化けの話を始めた。彼女はよくそういうものが見えるということだった。
 そのとき私は「一度だけ、はっきりと見たことがあり、録音も残ってます」と、奈良県で見た男たちの話をした。うなずきながら熱心に耳を傾けていた孫さんが「いや、違うよ。ちょっと待って」と話を遮った。
 「それは幽霊じゃないよ。幽霊だったらそんなにはっきりは見えないし、足音や笑い声が録音されるなんてことはないよ。もっと光のような形で現れるか、ぼんやりしている」
 孫さんは誰かと交信をしながら話しているような素振りだ。あれこれ想像して答えるというより、私の話を聞きながらその登場人物と直接やりとりしている口ぶりなのだ。
 「うん。その人たちは中国人だよ。大昔に日本に来て、そのままそこに残った人たちだね。そう。その人たちが仙人だよ」
 「じゃあ、神直先生は……」「普通のおじいさんだよ。でも、その仙人たちの力で色々なことをしてきたんだ。普通の人だよ」「じゃあ、あの笑い声の3人は……」「まだ生きてるんだよ、そこで」「生きてるって」「もう千年以上前からそこにいるんだよ」「でも、そんなこと」「生きてるんだけど、普通には見えない。ときどき、そうやって出てくるけどね。だから誰も見えなかったでしょ。そのおじいさんも見えてないよ」
 じゃあ、なぜ私に見えたのか。そしてなぜ録音という形で、彼らは声を残したのか。
 「ちょっと、それを聞かせてくれる。聞いたらわかるかも知れない」
 私は引き出しの奥から古いコンピューターを取り出し、録音ファイルを探し始めた。

(この項つづく)

 

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