自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

ズールー語と和歌

2024年4月号掲載

毎日新聞契約記者/藤原章生

 

 南アフリカに3カ月という長い日程を組んだのはズールー語を学ぶためだった。西アフリカを旅行中、人の家に泊めてもらううちに、現地のアフリカ言語を自分のものにしたいという欲がでてきた。そのためには、まずは取材の拠点となる南アフリカの代表的な言語、ズールー語を学ぼうと思ったのだ。

 ムザマーネ、通称MZという名の元高校教師の元に週3日通い、毎回20ほどの構文を録音してもらい、それを繰り返し朗読している。私が寄宿しているソウェトの友人宅は、裏庭が飲み屋のようになっている。といってもビールだけを売りツマミも何もない店で、現地では「シェビーン」と呼ばれる小さな酒場だ。そこの酔客と話していると「俺はこんな酔っぱらいの話を聞くために勉強しているんじゃない」と挫けそうになるが、日々彼らの言葉に耳を傾けている。それとは別にズールー語の分厚いテキストを自習し、ミュージシャン志望の若者、サムゲロを先生に、ひたすら構文を朗読する日課を続けてきた。

 ズールー語に限らず、アフリカ言語を学ぶと、早々に苛立ちの時期がやってくる。どうしても英語のように文法、つまり文の構造を理解したくなるからだ。

 「でも、ズールー語の場合、主語によって、動詞も形容詞も変化するので、分解するより、一つの表現、音として覚えた方が早い」というのが彼らの言い分だ。例えば、「物」をズールー語ではイシントと言うが、複数形の「多くの物」は「イジント・イジニンギ」となる。「イシント」のシ(si)の部分がジ(zi)に変わって「イジント」となり、形容詞の「イジニンギ」が後ろにつく。では「多くの」という言葉を使いたい場合、いつもこの「イジニンギ」を使えばいいかと言うとそうではない。「多くの人」の場合、「アバンツ・アバニンギ」となる。「人々」を意味する名詞の「アバンツ」に合わせて形容詞の頭の部分もイジではなくアバに変わる。

 英語の場合、「多くの物」を指すメニー・シングズを知っていれば、メニー・ピープル、メニー・ドッグズなどとすぐに応用できるが、ズールー語の場合、「多くの」を意味する語幹、ニンギが主体に応じて、エニンギ、ガニンギ、イジニンギ、アバニンギなどに変化する。この単語だけならいいが、すべての動詞、形容詞、複数形が同じように多彩に変わる。例文を記憶した方が早いという教師の言い分は、この多彩さから来ている。

 実際、ズールー語の教科書を3冊ほど読んでみたが、いずれも最後には「構造にこだわらず、覚えたほうが早い」といった助言で締めくくられる。だから私は途中から、文法と音の折衷案で取り組み、1カ月半がすぎたころ突然、人の会話やラジオのズールー語の一部を聞き取れるようになった。聞き取るというより、一部の言葉を掴み取る感じだ。「多くの」を意味する「アバニンギ」であれ「イジニンギ」であれ、そこにある語幹、「ニンギ」という音を聞き出せれば、前後の文脈がなんとなく理解できる。少なくとも彼らが何について話しているのか、ある程度わかるようになった。

 こんな文章がある。「グンガニ・ウンギブザ・イミブーゾ・エミニンギ」(なぜあなたは、そんなにたくさん質問するのですか?)という意味だ。この一文から明らかなのは、彼らは音の繰り返し、響きを大切にしているということだ。英語でライム、日本語で押韻(おういん)と呼ばれる音の重なりだ。この文の場合、「ウンギブザ」のブザが次の「イミブーゾ」のブーゾに絡み、「イミブーゾ」のイミという音が次の「エミニンギ」のエミという音を呼び起こす。 

 この押韻は、音楽ではヒップポップやボブ・ディランの歌詞に顕著で、同じ響き、音を繰り返す。これは日本の詩、俳句、和歌でもよく使われる。

 ひさかたの ひかりのどけき はるのひに しづこころなく はなのちるらむ

 紀友則の和歌では、「ひ」「は」の音が韻を踏んでいる。私の母親は和歌が好きで、彼女が口にするのを聞いているうちに、和歌をいくつか覚えたが、意味や文法を理解したというより、音で覚えた。つまり、ズールー語は和歌を覚える要領で学んだ方がいいということだ。

 和歌には返歌、返し歌がある。その中には、もらった歌で使われた韻をそのまま使って返すという形もある。同じようにズールー語でも、相手の放った音、例えばZの音を多用して返す、一方が呼びかけ、もう一方が似た響きで返すという形が多用される。極端な言い方をすれば、歌詞を覚える要領で学べということだ。そんな勉強で、この複雑な言葉をものにできるのだろうか。不安になるが、「驚くべき上達」と言われると嬉しくなって、取材そっちのけで、受験生のように日々勉強している。

 あるとき、居候先の友人の妻がこう言った。

 「せっかく勉強しても、日本に帰ったら使わないし、忘れちゃうじゃない。もったいないよ」「何言ってるんだよ。いつかここに暮らすために学んでいるんだ。そうじゃなければ、やらないよ」。そう応じると、「ここに住むのね、ずっと。それがいい、絶対それがいい」と大喜びした。

 しかし、いつからどう住むか。私には日本に家族も犬もいるし、兄と暮らす老母も健在だ。新聞をはじめ原稿書きの仕事をどうするか。お金をどうするか。すんなりとはいかないが、少なくともズールー語で取材ができるようになりたい。 これが現時点での私の目標だ。60代から学んだ言語はすぐ忘れる、と言う人もいるが、年齢については滅多に考えないようにしている。関係ない、関係ないと。

 

●近著

『差別の教室』(2023年5月17日発売、税込1,100円、集英社新書)

 

23年のタイムトラベル

2024年3月号掲載

毎日新聞契約記者/藤原章生

 

 南アフリカに着いて間もないこの1月、私は友人につき合い、ショッピングモー ルにある銀行のベンチに座っていた。 モールの玄関口や駐車場で暇そうに佇んでいる人の姿は昔と変わらない。だが、 買い物に来る人はみなおしゃれで、裕福そうに見える。思わず声をかけ、写真を 撮らせてもらったほどだ。 銀行は当時より立派になっていて、多くの人が並んでいた。当時は職員といえば、黒人居住区でも大半は白人だったが、それが見事に入れ替わり、黒人かカラードがまるで何事もなかったかのように静かに業務に勤しんでいた。

 2001年春にこの地を去って以来、23年ぶりの南アである。この国の貨幣、ランドのお札には当時、バッファローやライオンが描かれていたが、動物は裏面に回り、どの紙幣も笑みを浮かべるネルソン・マンデラになっていた。マンデラは私が赴任した当時の大統領で、人種隔離、アパルトヘイトと闘った英雄だ。小ぶりになったランド紙幣は「子ども銀行」のお札のようで、私はタイムマシンで近未来のフィクションの世界に紛れ込んだような気が一瞬した。

 私がいまいるソウェトはヨハネスブルグの南西部にある。タウンシップと呼ばれる旧黒人居住区の中でも最大の区域で、「サウス・ウェストのタウンシップ」の頭の2文字を合わせたSOWETOが街の名となっている。私がここに落ち着いたのは、南アの友人、ケレ・ニャウォと暮らすためだ。彼は私が南アに暮らし始めた1995年からの知り合いで、新聞社の支局の助手をしてもらっていた。その人柄が同僚にも好かれ、私が南アを去ったあとも後継の記者たちのために、支局が閉鎖される2023年秋まで働いてきた。かれこれ28年の奉仕だ。

 95年当時、ケレは脚本家を兼ねた舞台俳優としてデビューしたばかりだった。地元紙で彼らの囚人劇「オーラ・マチータ」を知った私は、中心街の劇場に行ってみた。そのころは引っ越ししたばかりで、助手も友人もおらず、家族の諸々など暮らしを整えるだけで精一杯だった。それでも何か惹かれるものがあったのだろう。ひとり車で夜の劇場を訪ねると、これが大当たりだった。ズールー語はわからなかったが、役者たちの全身の動き、顔の演技、変わり種の囚人が織りなすコーラス混じりのドタバタ劇に魅せられた。閉幕後に楽屋を訪ねたのをきっかけに私は翌日から彼らが暮らすソウェトのピーリ地区に通うようになる。そして、演出担当やいろいろな俳優たちと仲良くなる中、沈思黙考型だが時折饒舌になるケレと妙なほど波長が合った。何時間も一緒にいても旅をしても、互いに気を遣わず、安心や思索、スパークするような直感をもたらしてくれる相手。ケレはそんな、いそうで、あまりいない友人の一人で、今回も会うなり、すっと23年前と同じ関係になれた。

 ソウェトはずいぶん発展した。かつては塀があっても低く隣近所が丸見えだったが、ケレの家も含め、いまは高い塀や赤茶色の屋根で統一され、豊かな旧白人居住区サントンを思わせる一画もある。考えてみたら、昭和30年代の東京に暮らした外国人が昭和50年代に舞い戻ったようなもの。変わっていて当然なのだ。モールには外資も入っているが、スティアーズ、ウールワース、ピックンペイなど南アの老舗が以前よりも幅を利かせていた。南アは人種政策で世界から孤立していた時期、ほぼ全てを自給できる政策を進めたことから、安価で良い商品をつくる地元産業が結構ある。それらが潰れるどころか、前よりも大きくなっていたのが私には嬉しかった。

 90年代よりも何もかもが整ったように見えるが、住み分けは強まった感がある。旧白人地区は塀をより高くし、より強固な電流ワイヤーを張り巡らし、私設の検問所がずいぶんと増えた。人種隔離政策のアパルトヘイトが正式に終わったのが1991年。当時は七色が混じり合うという願いから、マンデラ政権は「レインボーネーション(虹の国)」 という言葉で自らの国を語っていたが、ケレに言わせれば「七色がよりくっきりしただけ」という話だ。色の境目、つまり「人種が混じり合う場」がかつてはまだあったが、いまは溝が深くなったという意味だ。白人、黒人、インド系らの壁が高くなっただけでなく、ナイジェリアやモザン ビーク、ジンバブエなどからの移民と南ア黒人との間の新たな壁が増えた。かつての3色が5色にも6色にも分かれて、より小さな世界で暮らしているという印象だ。

 旧白人居住区の友人たちを訪ねると一様に「治安が悪くなった」「政権がひどい」と言い、海外に出た人も多い。逆に、当時危なかったソウェトがかなり安全になっている。路上強盗やギャングの争いはほぼなくなり、どこへでも歩いていける。住民たちの私的制裁の広がりや教育など理由はいろいろだろうが、少なくとも、かつてあったような緊張感がもうない。明らかに緩んでいる。

 90年代当時、南ア黒人はまだ被害者の立場にいたが、いまはどこから見ても彼らがこの国の主役である。その主役の中心地であるソウェトに大学や国の施設、モールができていく中、次第に犯罪が収まっていったのは、ごく自然なことに思える。

 政治は年々汚職がひどくなり、国、行政に対する人々の期待は大幅に削がれている。日本も含めた世界的な傾向だが、旧来の議会政治に対する絶望感が広がり、その代わりの制度もないまま、人々はいまいる政治家をとにかく嫌い始めている。

 そんなことをあれこれ考えながら、私は1時間以上も銀行のベンチに座っていた。東洋人が珍しいのか、みなこちらを見ていく。驚いた顔でじっと見る人、ちらっと見る人、いろいろだ。

 銀行の用が済んだのだろう。杖をついた初老の女性が外に出ようとしたら、片方の回転ドアが掃除中で閉鎖されていた。清掃担当の人がもう一つのドアから出 るよう促すと、初老の女性は「あら、そうだったの、気づかなかった」とでも応じたのだろうか。杖をついてゆっくりともう一つのドアに近づいたとき、私に気づくと、「ほんと大変」といった仕草をして、笑顔を見せた。人を包み込むような温かい表情、ごく自然なふるまいだった。

 たったそれだけのことなのに、どうしてだろう。彼女の表情がいまの南アフリカを凝縮していると信じていい気がした。そして、この国が腕を大きく広げ私を迎え入れてくれていると強く感じた。

 

●近著

『差別の教室』(2023年5月17日発売、税込1,100円、集英社新書)

 

アフリカ人を前に変わった自分

2024年2月号掲載

毎日新聞契約記者/藤原章生

 

 アフリカ大陸の旅もあっという間に2カ月。昨日、西アフリカのコートジボワール最大の都市、アビジャンに着いたところだ。もう少し先に進んでいるはずだったが、ずいぶんと長居してしまった。

 スペイン、モロッコモーリタニアまでは、出会った人の家に長くても3泊ほどで順調に下ってきたが、マラリアにかかったのも手伝いガンビアに10日、その南のセネガルのカザマンス地方にも長居し、ギニアビサウシエラレオネでもいい知り合いができ、日にちがたってしまった。

 こんなペースで南下していたら、南アフリカに着く前に帰国予定の4月がすぎてしまう。そう気づいて、ここアビジャンから南アに飛ぶことに決めた。

 西アフリカには思った以上によく馴染めた。概してこの地の人々がとても親切というのもあるが、私自身が変わったのも大きい気がする。

 34歳から39歳まで南アフリカに暮らし、西アフリカにも何度か来たことがあるが、当時の私は人に対しもっと警戒していた。大体は現地で雇った助手と行動をともにし、路上で人に声をかけられても無視して先に進むことが少なくなかった。

 コンゴ民主共和国の首都、キンシャサで暴動に巻き込また体験や、何かとたかられたりすることにうんざりしていた私は、いまより緊張していた。

 いまは物乞いでも、露天商でも、ただ路上に椅子を出して和んでいる人でも、声をかけられれば言葉を交わすようになった。何よりも相手を正面からきちんと見るようになった。

 しつこそうな物乞いでも、「いや、だめだよ。いまは小銭を持ってないから。でも、声かけてくれてありがとう」といったことを言うと、いい笑顔を返し、それ以上食い下がってこない。そんな中、現金を持たない主義のセネガル農民や、家を何軒も持っているガンビアの実業家、シエラレオネの海辺の副首長らと親しくなり、彼らのところに世話になった。

 ある日、ガンビアで出会ったジミーという男と街の露天食堂で昼飯を食べていたら、すぐ前の博物館前にバスがとまり、米国人らしき人々が20人ばかり降りてきた。彼らは脇目もふらず博物館に入り、大半は再びバスに戻っていった。おそらく、クルーズ船から降りて街を見物にきたのだろう。そのうち、2人ほどの60代とみられる女性が、露天の食べものに興味があったのか、私たちの方に恐る恐る近づき、鍋の中をのぞいた。その様子を見ていた私達は「ハロー」と声をかけたが、いずれも一瞬怪訝な顔で頷いただけで、言葉をかわそうとしなかった。顔には明らかな緊張と警戒があった。

 去っていく彼らを見ながら、普段は寡黙なジミーがうまいことを言った。「彼らはバードウオッチャーみたいだ」。 私は特段の返事もしないまま、チェブと呼ばれるぶっかけ飯を黙って食べた。

 見られる方は敏感である。「俺達は鳥か動物か」とジミーは感じたのだろう。でも、そんなことにはすっかり慣れていて、頭にもきていない。

 女性の方はどんな気持ちで私達を見たのか。博物館、大したものはなかった。さて、船に帰りましょう。あ、あそこに人が群がっている。食堂みたいね。ちょっと見てみよう。美味しそうだけど、蝿がたかっているし、不衛生ね。現地人に混じって中国人もいるわ。声かけてきた。からまれたら嫌だから早く戻らないと。

 言葉にすれば、そんな感じだろうか。ジミーは女性の心象をすぐに察知し、バードウオッチャーという言葉にした。

 彼女ほどではないが、1990年代後半、30代のころの私も似たような顔をしていたように思う。取材対象として接しても、彼らの中に入り同じように暮らしてみようとはしなかった。

 取材の合間に立ち寄った村々で心洗われる体験もしたが、いつも急いでいた。次の原稿、次の取材のことばかりを考え、彼らの傍らを走り抜けていった。

 それから20数年がすぎ、運も良かったのか、いまは彼らの中に少し入り込めている。「ずっとここに暮らしてもいいよ」と受け入れられている。

 何が変わったのだろう。

 当時はヨハネスブルクに妻と幼子3人を残して取材旅行に来ていた。家を、特に子どものことを忘れて一人旅を楽しむなんてことはできなかった。それにアフリカ特派員の仕事に夢中だった。でもいまは、子どもたちも独立し、妻はいるが、家族からかなり解放された立場にある。

 そうした家庭環境に加え、私自身の人格、人間性の変化も大きい気がする。

 あのころは、ものを書くという仕事がら、相手や物事を枠にはめて理解する未熟さがあった。黒人、白人、貧困といった言葉のパズルでわかったふうな気になっていた。  でも、いまは違う。誰であれ相手に対したとき、以前よりも一層、個人としてとらえるようになった。物乞いに出会ったとき、彼らを「物乞い」という枠に当てはめる以前に、その人間の中身を、あいまいな言葉だが、「心」のようなものに触れようとしている自分がいる。

 「うちに来て泊まっていったらいい」と言われても、誰彼なくついていくことはない。でも、その人間の心をのぞき、その一瞬の直感で、悪い人間ではない、いい人間だ、と判断し、相手に身を任せる。

 30代のころはおいそれとそんなことはできなかった。でも、いまはそれをしている。そして一度信頼すれば、自分をできるだけさらけ出す。

 なぜ、そうなったのか。年齢を理由にしたくはないが、それはあるだろう。万が一の誤算があり、殺されることになっても構わないと常々思っている。死ぬこと、そして人に対する恐怖が薄らいだということかもしれない。子供のころはあんなに人が怖かったのに。

 ここの人たちは一般に感情の起伏が激しいだけではなく、相手を見抜く力を持ち合わせている。私が不安だったり、イライラしていたらすぐにそれがわかる。逆に、相手に無心に自分を委ねる気持ちをこちらが、なんの飾りもなくさらけ出していると、彼らはそれをすぐさま感じる。そして、彼らもまるで写し鏡のように、自分たちをさらけ出すようになる。

 旅の前半では、そんなことを考えていた。後半の南アフリカは犯罪も手が込んでいて、もう少し複雑なので、果たしてどうなるか。

 

●近著

『差別の教室』(2023年5月17日発売、税込1,100円、集英社新書)

 

ガンビアで目にしたシスターたち

2024年1月号掲載

毎日新聞契約記者/藤原章生

 

 アフリカ旅行を始めてそろそろ1カ月になり、西アフリカの小国、ガンビアでこんな光景を目にした。

 しばらく路上で待っていると、目当ての行き先に行く大型のワゴン車が客寄せを始め、10人ほどが一斉にバスにかけていった。私も加わり、スライド式のドアから乗り込むと、すぐ前にいた若いカトリックのシスターが後部左隅の座席の収まり、私もその列の右端に座った。するともうひとり、赤ちゃんを抱えたシスターが懸命に乗ろうとして、中にいる乗客に赤ちゃんを受け取ってもらっていた。身が軽くなった彼女はもう一人のシスターが確保した後部座席に収まった。

 赤ちゃんを受け取った乗客がシスターに返そうとすると、「赤ちゃんはあちらの」と言ったのか、すでに乗り込んでいた母親に渡され、車は走りだした。シスターはその母親を助けるため赤ちゃんを抱えていたようだ。

 2人のシスターは空色と白のベール、ワンピース姿でまだ20歳くらいだ。一人は黒縁のメガネをかけている。布教の絵はがきを配っていたので、すでにシスターのようだ。ほどなく2人は聖書の朗読を始めた。声をそろえ、ときにハーモニーのように交互に声を出しながら、ジーザスを称えるくだりを読んでいる。私は2人を撮影したくなった。私が今回持ってきたのは古い中国製のスマホ1台とソニーの小型カメラだった。軽量化のため、パソコンを含め他に撮影機材は持っていない。

 スマホを手に「撮ってもいいか」と聞こうとした。しかし、聞いてしまうと、彼女たちの自然な姿が撮れない。迷っていると、隣のシスターが「どうして?」と私に問いかけてきた。盗み撮りと思われたようで、私はあわてて、「あなたたちの姿が美しいと思ったのです」と言い訳をしようとしたが、「すみませんでした」とただ謝った。2人は現地のアフリカ言語、ウォロフ語で何か言葉を交わすと、奥にいた小柄なシスターが「でも、どうして写真を?」と聞いてきたので、私は「撮っていません、大丈夫です。続けて下さい」と応じた。安心したのか、2人はまた聖書を読み始めた。

 ガンビアは旧英国領なので、いまも学校教育は英語が主体であり、大方の人とは英語が通じる。11月6日に日本を出て北京経由でスペインのバルセロナに飛び、そこの友人宅に少しいてから、陸路を南下してきた。

 スペイン南部の町アルヘシラスでは商店も人々も北アフリカの移民が主体で、かわされる言葉はアラブ語だった。そこからジブラルタル海峡をフェリーで渡り、モロッコに入るともうスペイン語は通じず、アラブ語とフランス語が主になる。さらに南下した砂漠の国モーリタニアも亜熱帯のセネガルも、私が使えるのはフランス語だけ。

 旅行なら私のフランス語で困らないが、雑談や身の上話はおぼつかない。大学時代、本来なら教養課程の2年で終えているはずの第二外国語、フランス語の授業を私はまる6年も受けている。アフリカ駐在時にコンゴなどフランス語圏を何度も訪れ、チュニジアにしばらくいたこともある。なのに、発音が難しいのか、フランス語は仕事で使えるに至っていない。

 ガンビアに入ると、人々が英語まじりの現地語で話しており、私は嬉しくなった。路上で目があった人と苦も無く話ができるのはどんなに楽しいことか。

 そんなころ、私はシスター2人と隣り合わせた。バスは北緯13度の亜熱帯の荒れた道を走っていく。

 「ジーザス」という言葉で始まる朗読を聞いていると、前に座る10代の女性が振り返って2人を様子をうかがっていた。彼女は頭からショールを被ったイスラム教徒のようだ。彼女の視線はどこか悲しそうであり、少し睨んだようにも見えた。

 「こんなところで聖書など読まないで」と異教徒として不快に思っているのか、と一瞬思ったが、彼女は何も言い出さなかった。

 人の表情は難しい。たとえば、魅力的な人をみた人はドラマのように目を輝かせ、陶酔した顔になるだろうか。意外にも、その目は何かをうかがう、獲物を捉えようとするような攻撃的な目になることがある。

 ワゴン車が小さな町に着くと、シスター2人は私の前をすり抜け、降りていった。その姿を目で追うと、2人とも、満面の笑顔で砂埃舞う道路を歩いていった。右前に座ったイスラムの少女も彼女たちを見ていた。シスター2人の姿がどんどん小さくなっていく。その姿を少女は真剣な、どこか悲しそうな目で追っていた。

 少女はシスターに惹かれたのだ。人は何かに惹かれると、悲しそうな非難めいた表情になることがある。彼女もそうだった。

 シスター2人と少女に物語があるわけではない。何かの教訓にしてしまえば、それはどこか嘘くさくなる。たとえば少数派のキリスト教徒に優しいイスラム教徒の国といった解釈にしてしまうとなにか違う。

 車内の出来事が私をいい気持ちにさせた。ガンビアのことを私は何も知らない。でも、ここはとてもいい国なのではないかと、その光景を見て直感した。

 2001年まで南アフリカに駐在していたころ、この国の周辺には何度か来ている。でも、ガンビアには特段のニュースもなく、仕事として来る理由がなかった。「旧仏語圏に囲まれ小さな旧英国領」といったイメージしかわかず、人に考えが及ばなかった。  今回、あえて来たのは、モーリタニアで知り合った30代の男に勧められたからだ。スペインのパスポートやフランスの健康保険証も持つ彼は「モロッコは人が優しい、スペインも悪くはない。でも、ドバイはレイシストが多い」といったことを言うのは、体験に根ざしているだけに実感が伴っていた。彼はモーリタニアでも肌の色の濃いアフリカ系の出だ。

 そんな彼とダカールまで一緒にくる道々、「ガンビア人はすごくオープンで明るい」などと話していたので、この国にやってきた。

 一人で町を歩いていると、道端に椅子を出してお茶をわかしている男たちとの雑談になるが、割といい感じの人が多い。英語が通じるというのもあるが、それだけではなく、なんだか人々の体に張りつく緊張が、ずいぶんとゆるい。

 米ギャラップ社の世界調査で見知らぬ人を助ける人が多い国の上位にいたのがこのガンビアだった。そのワーストワンが日本である。「最近見知らぬ人を助けましたか」といったアンケート調査の結果では、西アフリカの国々が上位を占めていた。きっといろいろな理由があるのだろう。しばらく、この国にいたくなった。

 

●近著

『差別の教室』(2023年5月17日発売、税込1,100円、集英社新書)

 

無目的な旅は人を寂しくさせるか

2023年12月号掲載

毎日新聞契約記者/藤原章生

 

 珍しく感情が波打った。割とすれっからしで、感情の上下が乏しい方だが、日本を出るとき、寂しい気持ちになった。スペイン経由でアフリカへ半年ほど行くため、この11月6日、妻と羽田空港に向け車を走らせていた。そのとき、彼女と離れる寂しさを覚えた。

 寂しいだけではない。虚しい感じがそこに加わっている。虚しさはどこからくるのか。言葉にすれば、自分が何をしようとしているのかよくわからない不確かさに、足元がゆらゆら揺れる不安感が加わったような気持ちだ。

 こんな気持ちになったのはずいぶん前のことだ。25歳、1986年の中米行きだった。結婚前、つき合って半年あまりの今の妻が成田空港まで見送ってくれ、似た寂し虚しさを覚えた。その後、何度も海外へ行ったが、そんな気持ちになることはなかった。もしかしたら、今生の別れになると予感したからかとも思ったが、違うだろう。なぜなら、4年前、ヒマラヤのダウラギリに登りに行ったときは、死の危険がはるかに高いはずなのに、寂しい気持ちにはならなかった。互いの老いかとも思ったが、つい去年の春、南米のチリに行ったときには寂しくはならなかったので、それも違う気がする。

 この気持ちの出どころはどこだろうか。ひとつ考えられるのは、旅、移動にはっきりとした目的がないということだ。ダウラギリはもちろん、チリ行きも長男を訪ねクライミングをするという目的がはっきりしていた。

 25歳のときの中米行きはアンデスに向かうという漠然とした最終目標はあっても、さして急がず、スペイン語もおぼつかないまま、ふらふらと漂っていた。今回も南アフリカの友人たちに会うという用事はあるが、そこに至るまでの経路、時間はあいまいなままだ。つまり、明確な目的のない移動という点で2つの旅はよく似ている。

 目的があった方がいいようにも思う。だが、それをはっきりさせてしまうとつまらなくなる。経験上、それがわかっているから今回のアフリカ旅行の目的を私は明確にしていない。仮に、こういうものを書くためと決めたとしても、大方はうまくいかない。というのも、アフリカという地について部外者である私が何かを企画したとしても、明らかな先入観、間違いが入り込んでしまうからだ。実際に取材を始めて早々に企画を取り下げたことは数しれない。

 部外者は無知と偏見の塊だ。外のイメージと内の現実との差は常にあるが、それがもっとも大きい大陸がアフリカだ。

 リンガラ音楽を題材にコンゴ民主共和国(旧ザイール)を巡る「命のビート」という企画を始めたことがあったが、この国を訪れた途端、捨て去った。民は疲弊し、停電続きで音楽どころではなかったのだ。 奴隷貿易が現代にどのような影響を残したかを語る「奴隷世界といま」という企画も、当のアフリカ人たちにさほどの被害者意識がないため、よそ者が無理に仕立てた「物語」になった感があった。

 企画、つまり企てが通用しづらい世界なのだ。企てがなじまない、企てが生まれづらい土地とでも言おうか。 今回の旅行を前に私がアフリカを去った2001年以降の歴史をおさらいし、その間に出た西アフリカの小説や学術書に目を通してみた。ある程度狙いを絞りたいという欲からだ。でも特段のテーマを決めなかった。決めてしまうと、そこに注力するあまり大事なものを見落としてしまう。極端なことを言えば何も取材しない。ただ、慌てずに最低限の手段でアフリカの西海岸を移動する。そこで何かを感じ、何かを書けばいい。そんな態度の方がいい。

 日本を出るときの寂し虚しい感じは、この態度から来ている気がする。 例えば出張、転勤のように、第三者が関わる理由があれば、それは致し方ない業務で、自分を納得させることができる。しかし、行き先だけを決め、何をするのか不明なままの旅立ちは、あくまでも自分一人で決めたことだ。当然のように自問が生まれる。

 お前は何をしに行くんだ。行く必要があるのか。なぜそんなことをするのか。しかし、究極を言えば、旅行とはそんなものではないか。目標もないまま漂う散歩の延長のようなもの。

 ところが普段の私は無目的な移動が好きではない。あてもなく散歩をする人がいるが、私はそんなことはしない。目的の決まっているところへ最短距離で行く。

 普段はしないのに、なぜ長旅では、そんな無目的なことをしてしまうのか。冬山はどうだろう。年末年始、テレビを見ながらコタツで熱燗でもひっかけていればいいものを、寒い中、わざわざ山に登って、という話だ。これも似てはいるが少し違う。冬山の場合、音のない真っ白い世界に浸りたいとか、過酷な中に身を置いてみたいなど、目的がそれなりにあるため、出発時に嫌だなあとは思っても、寂しさはない。

 目的のない自主的な長期の移動は、当時者の感情を波立たせる。それが、近親者と別れる寂しさ、自分の存在の不確かさ、虚しさを感じさせるのだろう。

 それでもしてしまうのは、当人たちがその感情の波立ちを、どこかで期待しているからではないか。普段は眠っている感情が露わになり、それがなんらかのプラスになると行為者は暗にわかっているから。感情の波立ちは、涙と同じように清涼感を与えてくれる。そこまで考えると、目的のない旅は希少なものに思えてくる。

 

●近著

『差別の教室』(2023年5月17日発売、税込1,100円、集英社新書)

 

心の恩人、中村寛子シスター

2023年11月号掲載

毎日新聞契約記者/藤原章生

 

  猛暑の終わりのころ、シスターの中村寛子さんを訪ねた。この方に会うのは2001年1月以来なので22年半ぶりである。当時、彼女はコンゴ民主共和国、旧ザイールの首都キンシャサにある修道院にいた。私は5年半のアフリカ駐在を終える直前、新大統領の就任式でこの地を訪れた際、彼女を訪ねた。初めてお会いし、3時間ほど話をした。それを新聞の「ひと」欄という小さな記事にしただけの関係だ。

 コンゴでは暴動に巻き込まれ怖い思いをしたこともあったが、私は懲りずにその地に通っていた。結構自分なりに疲弊していたのだろう。質素な修道院の部屋に案内され、お茶を飲みながらシスターとすごした時間は忘れがたいものとなっ た。

 まずは来歴を聞いた。山陰地方に生まれた彼女はまだ戦後の匂いが残っていたころ、好きな人ができ婚約も済ませていた。そんな折、不思議な体験をした。ある朝起きると、とても幸せな気持ちになり、自分は生涯、神に仕えなくてはならないと思ったそうだ。それを「召命」という言葉で彼女は語った。

 不勉強の私は当時、その言葉を知らなかった。 召命を受けた彼女はシスターになるために、以前から通っていたカトリックの一派、 フランシスコ会の団体に入った。そこからバチカンに派遣され、しばらく勉強をした末、南部アフリカ、アンゴラの半砂漠地帯にある修道院に派遣された。

 独立後の内戦中で、右派側のゲリラに男女の同僚とともに誘拐され、4カ月間拘束の末、解放された。砂漠で不自由なキャンプ生活を強いられたが、危害は加えられなか った。その後、一時日本に戻り、次に派遣されたのがキンシャサだった。

 とてもゆったりとした優しい口調と温かいムードを漂わせた彼女に私は救われたような思いがした。そして取材を終えるとしばらく雑談した。当時私は39歳で新聞記者になって12年目だった。中村さんは私より20歳ほど年上だった。

 「天啓のようなものでシスターになって、後悔したことはありませんか」。そんな質問をぶつけると、彼女の返事は意外なものだった。

 「ええ、ありませんが、ごく稀に、素敵な男性などに出会うと、心が少し乱れることはありますね。でも、祈ることで乗り越えてきました」

 シスターにもそんな恋愛感情、ときめきのようなものがあるのかと思うと、やっぱり人間なんだと嬉しくなった。

 こんな言葉もよく覚えている。「長年日本を離れていますが、長くなればなるほど、自分が日本人なんだと自覚しますね」

 話も半ば過ぎ、あたりの熱帯の森が午後の湿気に包まれ始めたころ、彼女が私に質問をした。「藤原さんはどうして新聞記者になったのですか」

 私はかいつまんで説明した。27歳の5月、中学時代の友人に会って飲んだとき、「お前、エンジニアかよ。俺、お前、ジャーナリストになると思ってたよ」と言われた。「まさか、俺、理系だし、文章なんか書いたことないからな」。そう応じ、話はそれほど深まらず、山登りなど別の話をしばらくして、家に帰った。ところが、翌朝、妙に日差しが明るく、私は起きるなり、「そうか、そうだった、新聞記者だった」とすでになることを決めていた。その後、会社に辞表を出したり、それまで読んだこともない新聞を熟読し試験勉強をしたりと日々がすぎ、その年の秋に神戸新聞毎日新聞の試験に受かった。その話をするとシスターは目を丸くしてこう言った。「それは召命ですよ」「そんな大層なものじゃ」「いえ、召命ですよ。導かれたんです」「誰に」「神様に」

 私は俗物である。シスターのように人のために尽くそう、人に寄り添おうなんて気はない。最近も朝日新聞の記者と話をしていて、彼は取材を続ける際、自分が正しいことをしているかどうかを常に問うていると言っていたが、私は善悪などまず問わない。一人の人間が考える正義などというものは状況次第で一日でひっくり返るものだとわかっているから、というのもあるが、それだけではない。ある読者の方が「あなたは善悪ではなく好き嫌いで書いているからいい」と言ってくれたことがあった。それに近い感じがある。

 私は、本当にこれは自分が書きたいことなのか、自分は心底、何を知りたいのか、それを問い続けながら、この仕事をしてきた。見る人が見れば「ただの自己満足じゃないか」となる。自分なりに悩む。こんなことでいいのだろうか。もっと書くべきテーマがあるのではないか、とか。だから、シスターに「召命」と言われたのは、話半分に受け取るとしても、その後大きな支えとなった。

 横浜市戸塚区にある修道院を訪ねると、すでに80歳を超えているのに、彼女はずいぶんと若々しかった。白髪が多少増えはしたが、話しているうちに、密林の中にいた彼女が蘇ってきた。そして、私とのたった一度の出会いをよく覚えてくれていた。召命のことも。私は彼女に礼を言った。22年半ぶりにようやく会えましたが、あなたはずっと私の中にいました。私がもうこの仕事を辞めようと思ったり、別の仕事に誘われたとき、私は、いられるだけ新聞記者でいようと思ったのです。シスターのおかげです、と。

 帰り際、車のところまで送ってくれたシスターはこう言った。「本当に不思議です。これが縁なんですね」。召命や導きという言葉よりも、縁の方がしっくりくる。 私はこのままでいいんだ、と晴れがましい気持ちで車を走らせた。

 

●近著

『差別の教室』(2023年5月17日発売、税込1,100円、集英社新書)

 

アフリカ本を読む 田中真知さんの本大当たり

2023年10月号掲載

毎日新聞契約記者/藤原章生

 

 この夏は前よりも時間ができたので、仕事以外の本を結構読んだ。コロナで入院したちょうどその日、2021年5月1日に60歳になり、毎日新聞社を定年退職したのだが、年金がもらえるまで、パートのような形で働ける仕組みになっている。社内ではそれをキャリアスタッフと呼んでいるが、なんのことかわからないので、私は「契約記者」と名乗っている。現役時代の3分の1の給料で、9時から5時まで働くという奉仕的な条件だが、現役時代のように必死に働かなくてもいい、ほどほどでいいという暗黙の了解がある。

 それでも、同僚たちの口ぶり、日々の紙面には、できるだけ働いてほしいという圧が潜んでいる。 契約記者になる際、上役と相談し条件をつけてもらった。一つは、自費で海外取材旅行に行っても構わない。もう一つは、私の欠員は社内で埋めるというものだ。2022年3月から7月の南米旅行や、この11月からスペイン経由でアフリカ大陸に行くのも、その条件あってのことだ。

 長い特派員時代、あちこち回り、何か面白いものはないかと探っていた。そんな貪欲な目で旅して回るのにうんざりしていた。いま考えている理想の旅行は、ひたすら受け身のまま、透明人間のように薄い存在として周囲を眺めているといったものだ。そこに人間関係ができれば、それに越したことはない。

 前置きが長くなったが、契約記者なのに、今年は『毎日新聞』にずっと記事を書いてきたため、連載が終わった夏に1カ月ほど休んで読書に専念した。いろいろと読み漁ったが結局、眼の前の目標であるアフリカものへと流れていった。最初は、南アフリカ滞在時に買い溜めておいた英文の本やレリスの『幻のアフリカ』など分厚い日記本を読み進めていたが、最近の本に興味が向かった。私がアフリカ不在の20年間に、日本語ではどんな本が出ているのかと、図書館で検索し新しい順に読み始めた。

 まず学者が全体像を網羅する「アフリカ学」的なものは実体験が描かれないため惹かれない。

 次は、アフリカ経済の勃興やビジネスチャンスをうたうものだが、これは統計表と同じで一度事実を知ったらそれで十分というものだ。 アフリカのどこかの国でビジネスをやって成功したといった本も意外に多い。私が暮らした90年代も、アフリカ各地でいろいろなビジネスをする人はいたが、それを本にしようという意思も需要もさほどなかった。結構、奥深く入り込んでいる鉱山投資家やブローカーもいたが、いま、本として出ているのはフェアトレードSDGsがキーワードのようで、文章の問題なのか、まだ引き込まれる作品に出会えていない。

 残るは結局、いい感性を備えた人の体験記となる。中でも圧巻だったのは作家、田中真知さんの『たまたまザイール、またコンゴ』(偕成社)という本だ。

 これは当時のザイール、現在のコンゴ民主共和国を流れる大河、コンゴ川を1991年と2012年の二度にわたって下る記録だ。中でも圧巻なのは91年の方で、欧州しか行ったことのない若い妻を無理に連れ出し、コンゴ人がすし詰めの定期船に乗り込む。

 チケットは特等から三等まであるが、著者はお金をけちって二等を買う。キャビンに行ってみると、天井の低い三畳ほどの部屋には窓も電球もない。おまけに、先客が5人ほどいて大量の荷物を詰め込んでいた。

 「ベッドにはラジオ、扇風機、椅子、電熱器などが散乱し、床にはキャッサバや豆の入った袋で足の踏み場もない。わずかな隙間で女が七輪で煮炊きしている。下のベッドにはおやじと子供が何人か寝ていて、上のベッドでは若い娘が聖書を大声で朗読している」

 呆然と立っていると、寝ていたおやじが起きてきて、二人のチケットを見ると、にっこりして、「まあ入れ」と言う。 人のキャビンを占領していて「まあ入れ」というおやじは、1カ月かけて上流と下流を往復しキャッサバなどを売って生活している。

 「ふだんはどこに住んでいるのか。『ここだよ』おやじはこともなげにいった。『このキャビンが私の家みたいなものだ。もう五年になる』」彼らが乗った定期船が「浮かぶ村」と呼ばれるのは、このおやじのように船に住み着いている人がかなりの数いるためだ。 著者は仕方なく一等のドイツ人の部屋に荷物を置かせてもらうが、一等が快適かと思うとドイツ人は「そうでもないんだ」と言う。エンジンルームの真上でうるさい上、熱気が立ち上り蒸し風呂のよう。著者はそこにもいられず、船内をうろうろして一人旅のカナダ人の老人から特等の話を聞く。そこはエアコンつきだと言うが、壊れている上、窓がまったく開かず、熱くて部屋にはいられないそうだ。

 「いやはや、なんと特等でさえ安住の地ではないのだ。それでも、あとで聞いたところによると、ザイール人の間では、特等と一等は『ヨーロッパ』、二等は『中国』、三等は『ザイール』と呼びならわされているのだという」(一部略)。

 書き方のうまさもあるが、実際に体験した者にしかわからない実感が随所に出てくる。私はこうした文章が好きなのだ。小説だって、著者が体験していないことはすぐにわかる。すると途端にしらけてしまうのだ。あと、受けを狙うようなあざとさ、薄い経験なのに大風呂敷を広げているようなものもだめだ。 アフリカ本も何冊も読んでいけば、田中真知さんのコンゴ本のような大当たりにときに出会える。

 

●近著

『差別の教室』(2023年5月17日発売、税込1,100円、集英社新書)

 

((((ここに脚注を書き大当たり大当たり))