2024年4月号掲載
南アフリカに3カ月という長い日程を組んだのはズールー語を学ぶためだった。西アフリカを旅行中、人の家に泊めてもらううちに、現地のアフリカ言語を自分のものにしたいという欲がでてきた。そのためには、まずは取材の拠点となる南アフリカの代表的な言語、ズールー語を学ぼうと思ったのだ。
ムザマーネ、通称MZという名の元高校教師の元に週3日通い、毎回20ほどの構文を録音してもらい、それを繰り返し朗読している。私が寄宿しているソウェトの友人宅は、裏庭が飲み屋のようになっている。といってもビールだけを売りツマミも何もない店で、現地では「シェビーン」と呼ばれる小さな酒場だ。そこの酔客と話していると「俺はこんな酔っぱらいの話を聞くために勉強しているんじゃない」と挫けそうになるが、日々彼らの言葉に耳を傾けている。それとは別にズールー語の分厚いテキストを自習し、ミュージシャン志望の若者、サムゲロを先生に、ひたすら構文を朗読する日課を続けてきた。
ズールー語に限らず、アフリカ言語を学ぶと、早々に苛立ちの時期がやってくる。どうしても英語のように文法、つまり文の構造を理解したくなるからだ。
「でも、ズールー語の場合、主語によって、動詞も形容詞も変化するので、分解するより、一つの表現、音として覚えた方が早い」というのが彼らの言い分だ。例えば、「物」をズールー語ではイシントと言うが、複数形の「多くの物」は「イジント・イジニンギ」となる。「イシント」のシ(si)の部分がジ(zi)に変わって「イジント」となり、形容詞の「イジニンギ」が後ろにつく。では「多くの」という言葉を使いたい場合、いつもこの「イジニンギ」を使えばいいかと言うとそうではない。「多くの人」の場合、「アバンツ・アバニンギ」となる。「人々」を意味する名詞の「アバンツ」に合わせて形容詞の頭の部分もイジではなくアバに変わる。
英語の場合、「多くの物」を指すメニー・シングズを知っていれば、メニー・ピープル、メニー・ドッグズなどとすぐに応用できるが、ズールー語の場合、「多くの」を意味する語幹、ニンギが主体に応じて、エニンギ、ガニンギ、イジニンギ、アバニンギなどに変化する。この単語だけならいいが、すべての動詞、形容詞、複数形が同じように多彩に変わる。例文を記憶した方が早いという教師の言い分は、この多彩さから来ている。
実際、ズールー語の教科書を3冊ほど読んでみたが、いずれも最後には「構造にこだわらず、覚えたほうが早い」といった助言で締めくくられる。だから私は途中から、文法と音の折衷案で取り組み、1カ月半がすぎたころ突然、人の会話やラジオのズールー語の一部を聞き取れるようになった。聞き取るというより、一部の言葉を掴み取る感じだ。「多くの」を意味する「アバニンギ」であれ「イジニンギ」であれ、そこにある語幹、「ニンギ」という音を聞き出せれば、前後の文脈がなんとなく理解できる。少なくとも彼らが何について話しているのか、ある程度わかるようになった。
こんな文章がある。「グンガニ・ウンギブザ・イミブーゾ・エミニンギ」(なぜあなたは、そんなにたくさん質問するのですか?)という意味だ。この一文から明らかなのは、彼らは音の繰り返し、響きを大切にしているということだ。英語でライム、日本語で押韻(おういん)と呼ばれる音の重なりだ。この文の場合、「ウンギブザ」のブザが次の「イミブーゾ」のブーゾに絡み、「イミブーゾ」のイミという音が次の「エミニンギ」のエミという音を呼び起こす。
この押韻は、音楽ではヒップポップやボブ・ディランの歌詞に顕著で、同じ響き、音を繰り返す。これは日本の詩、俳句、和歌でもよく使われる。
ひさかたの ひかりのどけき はるのひに しづこころなく はなのちるらむ
紀友則の和歌では、「ひ」「は」の音が韻を踏んでいる。私の母親は和歌が好きで、彼女が口にするのを聞いているうちに、和歌をいくつか覚えたが、意味や文法を理解したというより、音で覚えた。つまり、ズールー語は和歌を覚える要領で学んだ方がいいということだ。
和歌には返歌、返し歌がある。その中には、もらった歌で使われた韻をそのまま使って返すという形もある。同じようにズールー語でも、相手の放った音、例えばZの音を多用して返す、一方が呼びかけ、もう一方が似た響きで返すという形が多用される。極端な言い方をすれば、歌詞を覚える要領で学べということだ。そんな勉強で、この複雑な言葉をものにできるのだろうか。不安になるが、「驚くべき上達」と言われると嬉しくなって、取材そっちのけで、受験生のように日々勉強している。
あるとき、居候先の友人の妻がこう言った。
「せっかく勉強しても、日本に帰ったら使わないし、忘れちゃうじゃない。もったいないよ」「何言ってるんだよ。いつかここに暮らすために学んでいるんだ。そうじゃなければ、やらないよ」。そう応じると、「ここに住むのね、ずっと。それがいい、絶対それがいい」と大喜びした。
しかし、いつからどう住むか。私には日本に家族も犬もいるし、兄と暮らす老母も健在だ。新聞をはじめ原稿書きの仕事をどうするか。お金をどうするか。すんなりとはいかないが、少なくともズールー語で取材ができるようになりたい。 これが現時点での私の目標だ。60代から学んだ言語はすぐ忘れる、と言う人もいるが、年齢については滅多に考えないようにしている。関係ない、関係ないと。
●近著
『差別の教室』(2023年5月17日発売、税込1,100円、集英社新書)