自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

人間の悪意が席巻する時代

2018年12月号掲載

毎日新聞夕刊報道グループ記者(当時)/藤原章生

 

 今からほぼ30年前、1989年5月に天安門事件が起きた。私も含め多くの人々の記憶に残るのは戦車の前に立つ中国人の姿だろう。戦車を阻もうと一人の男が立ち、戦車がその男を避けて前に進もうとすると男はそっちに移動し、再び阻もうとする。

 当時は平成元年。私は新聞記者になり長野市に赴任したばかりだったが、支局長ら仲間達と映像を見たときのことをよく覚えている。「中国が壊れるぞ」「この男はすごいなあ」といったことを50歳になったばかりの支局長が感慨を込めて語っていた。中国は壊れはしなかったが緩やかに変わり始めた。

 その年の秋、ベルリンの壁が崩壊し、東欧で数々の革命が起き、のちの東西冷戦の終結へとつながる。

 人種隔離政策、アパルトヘイトが続いた南アフリカで、ネルソン・マンデラが27年の獄中生活を終え、釈放されたのが翌90年の2月だった。そしてアパルトヘイトにまつわる法律が廃止されたのが翌91年6月のことだ。

 89年から91年という時期は、世界の世論が、長年抑えられてきた中国の、そしてソ連(現ロシア)の支配下にあった東欧の個人の自由を求め、さらには差別されてきた黒人の解放を祝った大きな転換期だった。第二次大戦後の負の、あるいは悪の象徴が一気に崩れた時代。

 私は長野で日々起きる事件や事故を報じるのに夢中で、世界を広く見渡す機会はほとんどなかった。それでも、世の中が何か大きく動いていると肌で感じていた。

 ただし、冷戦が崩壊して万々歳、明るい未来がやってくると単純には思えなかった。たとえて言えば、70年代の空は見事に明るかったが、89年から91年ごろは薄曇り。それがこれから晴れ渡るのか、次第に雨模様になるのかはわからない。期待と裏腹に大きな不安が心の底にあるような、そんなムードだった。

 つまり、人間は例えば「冷戦」という一つの重し、それが負のものであっても、何かに縛られている状態の方が、より空が明るく見えるのではないか。そんな直感を当時、私は抱いていた。これを証明するのは難しく、青空も実は錯覚に過ぎないのかもしれないが、縛られることによる安定というものはあるだろう。

 ぽんと自由な世界に放り出されるより、囚われの身である方が安定しているという錯覚の中に人間は生きている、と感じていた。

 それから30年がたち世界はどうなったか。

 象徴的なのはトランプ現象だ。弱き者に対する平然とした差別発言。「自分さえよければ、自分たちの国さえよければ」というエゴイズム的な言動と政策。トランプの真似をして人気をはくしたブラジルの泡沫候補、ボルソナロ氏がこの10月の選挙で次の大統領に選ばれた。多民族、多文化の共生を国是としてきたブラジルで、先住民や黒人差別を声高に叫ぶ人物がトップにつくなど、30年前に誰が想像しただろうか。

 例えば、マンデラ解放のとき、「有色人種は閉じ込めておけばいい」「黒人に政治ができるわけがない」などといった声が仮にごく一部であったとしても、それが世界の世論の一端に現れることは決してなかった。「東欧の連中など、その地に閉じ込めておけ」「西欧に来ることは許さない」という発言も耳にしなかった。「差別は悪」「個人の自由は謳歌すべきもの」という世論が世界で当たり前のようにあったからだ。

 そこで浮かぶ言葉が「悪意の噴出」だ。

 過去30年、インターネット環境が急激に広がった。89年ごろ、パソコンはまだごく一部の人のものだった。それを多くの人々が当たり前のように使い出したのが今から20年ほど前、世紀が変わるころだ。そしてネットを携帯電話やスマートフォンで使うのが日常となるのが2010年ごろのこと。

 ネットが「悪意の噴出」をもたらしたようだが、そうではない。そもそも人間の中にあった悪意が環境が整ったことで表に出てきたに過ぎないと考える方が正しい気がする。

 マンデラ解放の時代にも悪意はあった。いやそれ以前から人間の中には常に悪意はある。だが、歴史の中で闇に、影に隠され、主流になるのは稀であった。

 それは一人一人の人間でも同じことだ。ごく一部の人を除けば、誰もが自分の中に善意と、ごく小さなものであれ悪意を抱えている。善と悪は日々戦い、天秤にかけられ、人は社会生活を営んでいる。悪意は善の本質を知り、判断するための役割を担ってきた。善ばかりの人が宗教や犯罪に巻き込まれるのはよくあることだ。人々はうまく悪意を飼いならしてきた。

 メディアが正論を流し、真面目な若者たちが教養を身につけようと岩波新書などを後生大事に読んでいた89年ごろ、それぞれの悪意が噴出する機会はさほどなかった。

 「メキシコ人は強姦魔だ」「イスラム教徒は入国させない」といったトランプ発言は89年当時では考えられなかった。それが今、全体の2、3割の人々を魅了するのは、その言葉で人の中の悪意が噴出するからだ。隠しておかねばならなかった自分の中の悪意が、大手を振って外に飛び出し始めたのが今という時代、という気がする。

 日本の政治家の「生産性」発言や、相模原の施設での大量殺人を犯した男による差別的発言、最近ではシリアで解放されたジャーナリスト、安田純平氏に対する激しいバッシングなど・・・。同列には語れないが、悪意がふとしたきっかけで表に顔を出す環境が整った結果とも思える。そういう時代になってしまったのだ。

 それに対抗する例えばオバマ氏の正論はひどく懐古的に響き、悪意を完全に潰すインパクトはない。では、どうなっていくのか。

 過去10年、20年でネット環境は急激に発達した。その環境はこの先、これまで以上の速さで変わっていくだろう。

 その際、人間の悪意は出るところまで出尽くすのか。どこかに歯止めがかかるのか。悪意を主役にみた場合、まだまだ始まったばかりという気が私はしている。

 

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