自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

30歳、大町、冬の感覚

2017年8月号掲載

毎日新聞夕刊報道グループ記者(当時)/藤原章生

 

 1991年春から1年間、北アルプスの麓に住んだ。安曇野の奥、大町市という街で、私は30歳だった。

 当時は年齢のことなど意識していない。30歳になったんだから、といった考えはなかった。それを言えば、40歳のときも、50歳のときも、そして56歳の今もないに等しいが、若いころはなおさらない。

 しかし、家族、周囲の人間との関係については、初めてというか、妙に意識した年だった。柄に似合わず、責任なんてことも考えた。そして、その分、自分で自分を縛り、人間が小さくなった。30歳はそういう年だった。

 大町に住んだのは偶然だ。その2年前、私は鉱山技師から新聞記者に転じ、長野市に赴任し、2年間、多くの「特ダネ」を書き、いいスタートを切っていた。

 新聞社に入ると、まず地方支局に回される。警察を、のちに県政を担当し、3年から5年ほどで東京や大阪などの本社に戻される。地方支局はいわばオン・ザ・ジョブ・トレーニングの舞台で、そこで力量が試される。

 私はそれにうまく乗った。新聞社では特ダネや面白いものを書いた記者に編集局長賞や地方部長賞といった賞を出す。それが社内報で発表され、数千円の金一封も出る。私は赴任間もなくそれを取り始め、2年過ぎた頃は累計で30もの賞を手にし、サラリーマン記者としてはかなりの優等生だった。

 長野市から大町市に転勤したのはそんな頃だった。松本支局大町駐在というポジションだ。その異動は、長野支局の1年後輩の男性記者に割り当てられたが、彼が断ったため、私が行くことになった。今でこそ珍しくないが、当時は入社間もない記者が駐在や通信部に行くのは稀で、彼は「駐在なんかになったら、僕の記者人生は終わりですよ」と頑なに拒否したため、困った支局長が私に「君、行ってくれるか?」ともちかけた。

 私の中にも内心、事大主義というのか、駐在よりも大きな支局で活躍した方が、目標としている海外特派員になりやすいという思い込みがあった。それでも「記者3年目あたりで、長野よりももっと田舎でやってみるのも悪くない」という思いも湧き、その場で快諾した。北アルプスの麓に住める魅力も大きかった。

 「なんで藤原ちゃんが」「断ればいいのに」「貧乏くじ、引いたな」と先輩記者に言われたが、月夜の晩にライトバンに詰めるだけ荷物を詰め、長野で結婚し、当時身重だった妻と犬を連れて引っ越した晩は、妙に愉快だった。

 結果的にこの転勤が好機となった。「好きに取材して好きに書いたらいい」と言ってくれる松本支局長、鷹揚な上司に恵まれた。

 私は山小屋や山登りのあり方を扱う「終末アルピニズム」という連載企画を1年間書き続けた。同時に当時、ダム計画が進んでいた川にまつわる連載など、自分なりのスタイルで書ける長文原稿を大量に書くことができた。また、長野時代に知り合った詩の同人誌の友人に誘われ、新聞記事とはまったく違う文体でエッセーを書き始めたのもこの頃だ。

 もし、長野支局に残っていれば、県政を担当させられ、記者クラブに詰め、役所の発表やその解説を書く仕事に終始していた。「県政キャップ」という、一応は地方支局の優等生に収まるが、自分の文体を探る訓練は中途半端なものになったはずだ。

 自宅も兼ねた駐在は、真正面に爺ヶ岳鹿島槍ヶ岳が見える里山にあった。くみ取り便所が臭う平家から、朝、松本支局へ通い、昼過ぎに戻ると、その足で白馬の大雪渓を登り、頂上の小屋で取材をして、夕暮れどきに下山してくる。そんな毎日だった。

 1年を通し、山を楽しみ、休みをとって、解禁されたばかりのロシアのカムチャツカ半島に遠征登山もした。

 プライベートでも変化があった。大町に引っ越した2カ月後に長男が生まれた。その子をおぶって山村を歩いたり、湖のボートに浮かれはしたが、父親という意識は薄く、子育ての多くは結婚するために東京から長野へ、そして大町へと移動する中で職をなくしていった妻に任せていた。

 そんな冬、学生時代の山仲間が訪ねてきた。一緒に針ノ木岳の東尾根を登るためだ。その年は雪が深く、苦しい登山だったが、中腹にテントを張り、吹雪の頂上を目指したが、樹林帯を抜け真っ白になると、尾根が新雪でナイフリッジになり、足元から雪が切れ、雪崩に巻き込まれそうになった。

 吹雪いてはいたが、無理をすればそのまま行けないことはなかったのかもしれない。だが、先頭を歩いていた私は何度か躊躇した末、「こりゃだめだ、戻った方がいい」と後続の二人に告げた。彼らもホワイトアウトの中で、「そうだな、やばいな」とすぐに応じた。

 みな、年の三分の一を山の中で過ごすような登山生活から離れて何年かが過ぎていた。20代前半の頃の山仲間という意識も、つながりも変わり、はげて寂しげな古看板、ほとんど灰になってくすぶっている生木のような冴えない感じが、私たちの間にあった。

 「子供ができたってのに、まだそんなことをしているのか」「危ない登山で死んだら、子供はどうなる」

 自分の中で、身内の、あるいはもう一人の自分の声が騒いでいた。

 その後、物を書くことにのめり込み、海外で暮らすようになるが、大町での冬、プライベートの面で何かが変わった。父親という役割を意識し、過剰に自分を縛り始めた時期だったと、今になってわかる。

 物心ついた頃から歩いてきた小道を何気なく振り返ると、それまで気づかなかった薄い扉が、カチャっと微かな音を立てて閉まったところだった。

 先日、大町を久しぶりに訪ね、そんな30歳の冬の感覚を思い出した。

 

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