自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

男と女の間には(その1)

2017年9月号掲載

毎日新聞夕刊報道グループ記者(当時)/藤原章生

 

 わかり合えない溝があったのか。

 先日、エッセイストの酒井順子さんにインタビューした後、少し落ち込んだ。うまく話を聞き出せないまま終わった感じがしたのだ。

 それは、男と女という属性の違いなのか。私と彼女の間に感覚の違い、物を考える前提や筋道の違いがあったのか。丁々発止で話が進まなかった。

 インタビューは、こちらと先方の話が3対7か4対6くらいで、向こうに語らせる時間がより多い方が効率が良い。だが、今回は5対5か6対4で、こちらがしゃべりすぎた感がある。だが、それは相手を刺激するためのもので、必ずしも、結果が悪いということにはならない。

 例えば同僚の鈴木琢磨記者の元首相夫人へのインタビューを横で聞いていたことがあったが、彼が小話といった感じで延々としゃべりつづけ、向こうが笑いながら「そうかもねえ」「それはないでしょ。違うわね」などと答え、その合間に少し言葉を添えるパターンだった。

 これは一つのスタイルで、要は、「私はこうこうこういう人間で、こんなことを知りたいんです」と相手に知らせ、相手の鎧を脱がせる術である。

 ただの一問一答なら、記者会見みたいなものだ。人の本音を聞き出すのに最悪の場が記者会見だ。その次がインタビューあるいは尋問。最もいいのがその人の独り言や身近な人との会話の盗み聞きだが、これは犯罪になってしまうこともあるので、難しい。

 そこでインタビューとなるわけだが、今回はどうも不全感が残った。ここでは、何回かにわたりその理由を探り、男女の関係について考えてみたい。

 酒井さんには2004年に出たベスセラー「負け犬の遠吠え」がある。30代以上の独身で子供のいない女性が「負け犬」で、比較的裕福な夫のもとで専業主婦に収まっている人を「勝ち犬」に頂点に見立て、「あまりムキにならず、自分たちの負けを認めた方が楽に生きられるよ」と同輩たちに訴えた本で、流行語にもなった。

 今回のインタビューは、近著「男尊女子」について話を聞くものだった。「男尊女子」は「男尊女卑」を文字った酒井さんの造語で、男を立てたり、バカなふりをすることで、結果的にうまく主婦の座に収まるような、「勝ち犬」たちの気質をテーマに日本社会を論じたものだ。

 一読してみて、いろいろ感じることがあったが、その一つは「酒井さん、モテたかったんだなあ」という感慨だ。

 男でも女でもモテたいものだが、中には、別にもてなくてもいいやという人もいる。モテることへのこだわりにはかなりの個人差がある。酒井さんの場合、正確にはかつての酒井さんの場合、かなりこの願望が強かったと、私は感じた。

 たとえば高校時代の同級生についてのこんな描写がある。

 男子高校生と話していた同級生が、東京の地名、例えば等々力(とどろき)の読み方を知っているのに、あえて「とうとうりょくかと思ってたあ」と言ってみせて、男子に「バッカだなあ、そんなことも知らないのかよ」と言われ、かわいく思われる。

 その同級生はすぐに「バカじゃないもん!」と応じ、「じゃあ、この読み方知ってるか?」と例えば「我孫子(あびこ)」とその男子が書いてみせると、女子はすかさず「がそんし」と答えると、「お前、なんにも知らないのな!」と男子に言われ、クシャクシャと髪をなでてもらったりしている。

 何事も自分より下の相手を求めがちな日本男子にモテるため、無知やドジのふりをする技の一つだが、酒井さんはこの「バカじゃねえの」の描写を一冊の本で4回も記述しているため、かなり、ここに囚われていると、私は感じた。

 傍でその同級生を観察し、イライラしている酒井さんの姿が眼に浮かぶ。

 でも、考えてみると、男である私自身、この「もん」語法というか、「なんとかだもん!」という女性の語り口が虫唾が走るほど嫌いなので、彼女が出す事例は笑えはするものの、どうも胸にストンと落ちてこない。

 先日、午後11時ごろ、東急東横線学芸大学駅の前を歩いていたら、これからどこか二次会に行くという風情の20代半ばくらいの男3人、女1人の会話を耳にした。

 「何か食いたいなあ」と言う男の声に、ほろよい風の女性が「あたし、トマトのパスタ、食べたーい」と声を上げた。別の男が「あそこに、ないんじゃね?」とちょっとからかう声色で応じると女性はこう言い放った。

 「あるもーん! トマト、ぜったいにあるもーん!」

 男性たちは、「はは」と軽く笑って受け流し、会話はそこで収まったようだった。

 私が苦手な「もん」語である。こういう物言いに私は思わず顔をしかめ、時に鳥肌が立つほどの嫌悪感を覚えるが、男性の多数派は本当にこれがかわいいと思うのだろうか。

 そういえば、遠い昔、こういう語法を使う女性と知り合ったことがあるが、私はどうもダメだった。若い頃はむしろ、「それは違うと思うな。フロイトに言わせれば、一種のコンプレックスの表れで……」などと腕組みして言うような女性にひかれたものである。

 酒井さんは、なぜそんな女子を羨ましく思い、自分もその「カマトト芸」を試してみたら、一気にモテ始め「してやったり」と思ったのか。

 モテるのはうれしい。でも、そんな簡単な「詐欺」にコロッと騙されるような男にモテても、付き合いが深まれば、本性を出さざるを得ないときは必ずくる。そのときの末路は悲惨ではないのか。

 と、そんな風に思う私のせいで、彼女と話が噛み合わなかったのか。

 野坂昭如が歌った「黒の舟唄」が私の中を流れ出す。

 <男と女の 間には 深くて暗い 川がある 誰も渡れぬ 川なれど エンヤコラ 今夜も 舟を出す>

(次回へつづく)

 

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