自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

32年ぶりの魔力

2016年11月号掲載

毎日新聞夕刊編集部編集委員(当時)/藤原章生

 

 先日、久しぶりに海外に行ってきた。ネパール・ヒマラヤだ。遅い夏休みをとり、私が福島県に駐在していた時に入会した郡山勤労者山岳会の仲間8人と1週間ほどのトレッキングを楽しんだ。65歳から33歳までの男女混成チームなので、毎日歩くのは5、6時間程度。最高点も標高3,100㍍ほどのハイキングだったが、下山間際にダウラギリ(8,167㍍)がくっきり見え、ちょっとした魔力にとりつかれた気分になった。

 私が初めてヒマラヤに来たのは、1984年、23歳の秋だった。当時、外国人に解禁されたばかりのインド・ヒマラヤのガンゴトリ山群にある、スダルシャン・パルバート(6,507㍍)という山の未踏ルートを登った。私は大学「5年生」で休学してバイトでためたお金をはたいて、仲間7人と、無事登頂することができた。

 その帰り、ニューデリーでインディラ・ガンジー首相の暗殺直後の暴動に巻き込まれ、暴徒から逃れながら宿舎を転々とする目に遭う中、チームは解散し、私はひとりネパール・ヒマラヤを見に行った。だから、今回のトレッキングはそれ以来、32年ぶりのヒマラヤということになるのだが、亜熱帯の森から高峰を仰ぎながら、「なぜ、あの時、やめたのか」という考えが出てきた。

 写真では何度も目にしたダウラギリやアンナプルナなどの8,000㍍峰だったが、実際に目にすると、そのどっしりとした重量感、ヒマラヤ襞(ひだ)と呼ばれる氷河のしわ、青みがかった雪の壁の輝きに引き込まれ、一人の人間にすぎない自分の小ささをまざまざと突きつけられる。そして、その小さな自分が、あの高峰にへばりついて一歩一歩あえぎながら登っていく蟻のような姿が、一種何か偉大なる物に包まれている心地よさとともに、生のありかを確かなものと感じさせる。そんな考えが一瞬にして頭を占領し、「登りたい」「いや、登れなくてもいい。でも本当にダメだと思える所まで、諦めきれるまで登ってみたい」と思わせるのだ。実物を見るとはそういうことだと、まるで初めてのように実感した。

 その直後に出てきたのは、「なぜ止めたのか」という思いだ。バカらしいとも思う。そんな事を考えても、今さらどうしようもないのだから。

 23歳。インド・ヒマラヤの6,000㍍峰のバリエーション・ルートに成功したあとは、7,000㍍、そして次には8,000㍍と、自分の中に割としっかりとした照準があった。すでに、大方の未踏ルートは登られており、登山という行為にかつてのような「人類初」といった探検的要素はなくなっていたが、あくまでも個人として、ヒマラヤの高峰を登り続けたいという思いがあったのは確かだ。

 「君、就職はどうするんだ」「いや、するつもり、ありません」「じゃあ、大学院に来る気はないか?」「いや、そんな気もありません」「じゃあ、どうするんだ」「バイトして金をためて、ヒマラヤに行き続けます」

 札幌の研究室で、指導教官とそんな会話をしたのを覚えている。

 だが、どこかでネジが一つ外れた。インド・ヒマラヤで「これは絶対に登れない」と二つ年上のリーダーが言い切ったハング状の岩稜(がんりょう)をクライミングシューズで登り切ったとき、最後の最後に左手を岩にはさんで無理矢理ずり上がった瞬間、「やった!」という思いと同時に、左腕にはめていたセイコーの腕時計がもぎ取れ、「あっ」と言う間もなく反対側の壁を伝って落下していった。のぞき込むと、1,000㍍はありそうな急峻な壁の底の赤茶色の岩盤が見えた。「あ、オヤジが買ってくれた……」。高校入学の祝いに買ってもらったダイバーズ・ウォッチは岩盤に向かって砂粒のように消えて行った。

 「身代わりになったんだ」と仲間は、どこかで聞いたようなセリフで私を慰め、私も「まあ仕方ない」とすぐにあきらめはしたが、その瞬間の記憶が妙なほど生々しく私の中に残った。

 壁を登り切ると、相棒と私は他のメンバーが登りやすいよう、そこにワイヤーのはしごをかけ、あとは頂上アタックだけという準備をして、一度、アタックキャンプに降りた。明日は一気に登頂だと勇んでいると、リーダーが「一度、下のキャンプまで降りろ」と無線で指示してきた。つまり、私は第1次登頂メンバーから外されたのだ。

 あの難所をクリアした俺が、大事な時計まで失って、誰も登ったことのないあのハングをずり上がった俺がなぜ後回しなんだ。下で俺たちを眺めていただけのリーダーたちがなぜ先に……。高所の影響もあるのだろう。そんなエゴが私の中に出てきて、自分でも自分が嫌になった。結果的に3度に分かれ、全員が登頂できたが、第3次だった私はそんなエゴを片隅に追いやろうとしても追いやれないまま、それでも表向きは明るくふるまい、氷河の脇を割り切れない気持ちのまま下山した。

 それは、ヒマラヤに行き続けようという信念を阻む一つの出来事だったように思う。自分のエゴ。最も忌み嫌う嫌な部分に対峙してもなお、という図太さが自分にはなかったのかも知れない。

 ニューデリーで暴動に巻き込まれたのをはじめ、一人でインドを旅するうちに人間のエネルギー、雑踏に引き込まれたのもあるかもしれない。大学を出てバイトをして、再びインドに行こうと準備していたとき、たまたまアンデスから戻ったばかりの中学時代に友人に会い、「アンデスはいいぞ、ヒマラヤと違って、ポーターなしでも一人で登れるから」と言われ、その時もらったカセットのフォルクローレの音色にも引き込まれ、私は行き先をインドから南米に変えた。そして、結局、バスで移動中、内戦さめやらぬエルサルバドルに滞留せざるを得なくなり、アンデスを見ぬまま帰国。恩師や会社の人に説得され、嫌々ながらも「一度くらいは」と思って就職してエンジニアになり、2年後、突然思い立って新聞記者となり、ほどなく結婚。物を書く行為にのめり込み、海外駐在をしながら夢中で子育てをし、今に至った。

 よそ見をし迷いながらも、あれこれもがいてきた小さな人間が32年ぶりにヒマラヤに戻り、実物の8,000㍍峰を目にした。32年たっても何ら変わらず、そのままの姿で見下ろしている。

 「今からでも遅くない。いつでもおいで」。魔力なのか。私の中でそんな声が聞こえた。

 

●近著

『差別の教室』(2023年5月17日発売、税込1,100円、集英社新書)