自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

なぜ群舞にひかれるのか

2016年8月号掲載

毎日新聞夕刊編集部編集委員(当時)/藤原章生

 

 先日、新橋演舞場に「レビュー夏の踊り」を見に行った。大阪を拠点にするOSK日本歌劇団の3日間にわたる東京公演の千秋楽。大阪松竹歌劇団、OSKに所属していた、友人のお母さんに招待してもらったのだ。前半は江戸の遊郭を舞台にした日本もの、後半はラインダンスなどを含めた西洋もので、10幾通りの振り付けを楽しめたが、特に引きつけられたのはやはり全員で踊る群舞だ。

 40人近くの女性ダンサーが男装、女装入り乱れて縦横無尽に踊り回る。サーっと流れ、ピッと止まり、サっと回り、パッと決める。その切れのよさ、全員が同じ息をしているような乱舞の調和に魅せられた。  

 群舞の場合、今回お披露目されたトップスターら最前列に目が奪われるが、全体を見渡した瞬間、全く無駄なく優雅に踊る一人に目が移り、今度はそっちを注視する。すると、その後方で全く同じ動きをしながらも、華麗さこそ欠けるが技術は引けを取らないダンサーに目が行く。そして再び全体を見渡し……と、その目移りする感じが面白い。 と同時に、これほどの数の踊り子が一人としてミスを犯さず、躍動と停止、オンとオフのリズムを全く崩さず踊り続ける現実に心が動く。単に均整のとれた体の群れが表現する調和、円滑、壮麗さに心打たれるだけではない。ここに至るまで、群れのひとり一人がどれほど努力を重ねてきたか。そんな想像が感動をもたらすのだ。日々の練習の一心不乱、何度繰り返しても理想に至らない絶望感、いらだち……。そんな感情がない交ぜとなって本番に至り、息一つ、着こなし一つ乱さず、満面の笑みで踊り続ける。大舞台での緊張、不安はひそかに隠し、誰一人として肩に力を入れず、余裕に満ちた体を披露する。彼女たちがもし過剰に張り詰めていれば即、観衆に伝わる。見る側が安心できるのは、それをまったく感じられない域に、彼女たちが達しているからだ。

 私を含め観衆の多くは、そのプロたちの、実は薄給と聞くが、プロならではの徹底さ、決してそこに至れなくとも常に完璧さを目指す向上心に魅せられる。だからこそ、心からの大喝采を浴びせ、終幕には完璧さから解放された踊り子たちはカタルシスの涙を流す。  
 実は長く、松竹歌劇団にあこがれていた。いや、本当はあこがれているのに、あこがれている自分に気づかなかった。
 物心ついた3歳のころ、親に連れられ松竹歌劇団の踊りを一度だけ見に行った。浅草の国際劇場だったのだろう。かすかな記憶だが、銀色の衣装を着た踊り子たちがラインダンスをする姿がチラチラと記憶の底に残っている。その後、一人で近所を歩くようになったころ、東京・上板橋の商店の脇に貼ってある、銀色の衣装の踊り子たちのポスターをじーっと見ていたのを覚えている。
 10歳で足立区の竹ノ塚の近くに引っ越してからは、浅草からの東武線沿線のせいかポスターの数はぐっと増えた。だが、同級生にそれを好む者はいなかったため、人通りが少ない雨の日に、それを凝視する自分がいた。
 小学校高学年以降、映画を見に国際劇場に行くようになると、外壁にラインダンスや踊り子たちの写真が飾られ、周囲を気にしながら、ひとりそれを見つめた。東京12チャンネル(現テレビ東京)でレビューのコマーシャルが流れると、胸がざわつき、目を離すことができなかった。それだけ好きだったのだ。

 では、なぜ見に行かなかったのか。

 おそらく、過剰な自意識、気恥ずかしさが働いたのだろう。子供にとってそれはエロスに結びつくものだった。もっと粗野で男っぽいものを求めなくてはいけないという、自分に課した義務もあった。
 実際に自分で趣味を選べ、金銭をそこに充てられるようになる高校生、大学生になったのは70年代から80年代だった。そのころは、欧米的なものでもよりリアルなものをありがたがる時代になっており、大正時代からのダンス劇は過去の遺物とみなされつつあった。そんなムードから歌劇団は次第にすたれ、松竹歌劇団は96年に解散。大阪のOSKだけが残った。

 その時代のムード、大勢の流れに私も従った。つまり、私と歌劇団の出会いはタイミングが悪かった。
 大学4年だった1984年の夏、札幌にいた私は「インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説」の冒頭シーンに釘付けになった。子どもの頃に見たのとほぼ同じ群舞が大画面を埋め尽くしたのだ。当時、地方ではロードショー作品は2本立てで、「スタートレック」のシリーズもの、私にとっては退屈な作品が併映だった。それでも私は冒頭のラインダンスが見たいがために、「スタートレック」を2回はさみ「魔宮の伝説」を3回、つまり、メシも食わずに計5本分、約8時間も映画館の座席にいた。一緒に来ていた女友達はついに堪忍袋の緒が切れ、「信じられない」と言って帰って行った。

 ああ、好きだったんだと、ようやく素直に気づいたわけだ。人間ってなんでこうもめんどくさいのか。なぜ幼いころにひかれたものを単純に追うことができないのかと、改めて思い知った。

 今回の「夏の踊り」は趣向が現代風になり、私があこがれていた60年代の大阪松竹歌劇団とは内容も違うだろう。それでも、エッセンスは変わらないはず。私がようやく出会えた特別なものだった。

 

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