自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

肩の力を抜いて

2016年3月号掲載

毎日新聞夕刊編集部編集委員(当時)/藤原章生

 

 先日、空手の昇段試験に通り、なんとか四段になった。四段などというと強そうに思われるかも知れないが、そうではない。私がやっているのは、沖縄発祥の糸東(しとう)流で、組手もやるが、大事なのは突きやけり、受けなど一連の数十の動きを披露する「形(かた)」の方だ。昇段の7割方はそのうまさで決まる。つまり、本来の形を崩さず基本通りに動けばいいのだが、これが難しい。

 審査に当たったのは、昭和4年生まれの師範、梅沢芳雄先生で、86歳になる。その敏捷さ、組手をした際に軽く当たる時の突きの強さ、刀のような腕の鋭敏さには驚くべきものがある。戦後間もないころ、糸東流の宗家ととも、この流派を築いた人で、形にことのほかうるさい。私は常々「肩を落とせ」「肩に力が入っている」と言われ続けてきたが、昇段試験を終えると、珍しくほめられた。

 「うん、よくがんばった。いい動きをしていたよ」「肩の力は?」「うん、肩の力も抜けてた。抜けるというより、肩は下げなきゃだめなんだ。自分も若いころはそうだったけど、どうしても肩が上がる。肩が上がると突きに力が入らない。でもずっと力を抜いていればいいわけじゃない。抜いて抜いて、最後の突きの一瞬にぐっと力を入れる。一瞬が大事なんだ」

 実は昇段試験を断り続けてきた。「そろそろいいんじゃないか」と師範に言われても、三段で十分と思っていたのだ。いや、三段とは名ばかりで、実際に人と対戦したわけでもないので、戦う実力は自分でもわからない。それに「昇段」というシステムが好きではない。

 軍隊でもクラブ活動でも、段階的に上がっていく「階級制」が私は大嫌いだ。バレーボールをしていた中学1年、軟式テニスを始めた高校1年のとき、威張る先輩に出くわし、スポーツそのものより、その上下関係が嫌になり早々にやめた。1、2年長く同じスポーツをしているわけだからうまいのは当然であり、こちらはその姿を見たり、教えてもらって少しずつ上手になる。ところが、経験が少し長いというだけで、偉そうにふるまう人間が組織には必ずいる。やれ「声、出していけ」「声が小さい」などとどやされると、「何を偉そうに、おまえは何様だ」などと思ってしまうのだ。するとそういう気持ちがすぐに伝わるのだろう。先輩風をふかす男にからまれた末、最後は「ばかばかしい」と辞めてしまう。

 高校2年になって山岳部に入り、大学も山岳部ですごしたが、そこでは、そういうことはなかった。もともとの気風もあるが、長ければ冬山で2週間も寝食をともにするわけだから、かちかちの上下関係は邪魔なのだ。

 そんな私が、いわば軍隊的な世界、武道を始めたのはたまたまだった。南アフリカにいたころ、長男の通う小学校で放課後、空手教室が開かれていた。「集中力がよくなり落ち着く」と言うので、息子にもやらせ、後ろで見ているうちに自分もやりたくなった。

 ユダヤ南アフリカ人の先生が気さくな人だったのも手伝い、初っぱなから完全にはまった。それから東京、メキシコ、イタリアと転勤の度に流派や師範を変えたが、かれこれ20年続けたことになる。小さい頃からお稽古事はいろいろやってきた。オルガン、お絵かき、そろばん、習字、剣道などはいずれも、自分でやりたいと言いだし、すぐに嫌いになった。私の名前はアキオのため、その都度、親に厳しくしかられ、「アキオはなんでもすぐ飽きる。だからアキオだ」とからかわれた。

 言い訳になるが、私は稽古というより、その道具に魅せられたのだ。クリーム色のおいしそうな四角いものを押すと音が出るオルガン。はじくとぱちぱちいい音がするそろばん。魔法のように筆の先から黒い汁が出る習字。竹刀や防具の触感、横線で顔を隠す神秘的なお面がかっこいい剣道。それらイメージにあこがれただけであり、実際に手にしてみれば、当初の輝かきとはずいぶん違うただの道具だと気づき、嫌になったのだ。

 そんな私が20年も続けたのだから、空手はそれなりに面白いものなのだろう。いや自分に合っていたというのか、先生が良かったのか。

 昇段試験の朝、目覚めるとメキシコで出会ったある師範の複雑な形を思い出していた。50人ほどの弟子を従え、政府の要人に空手を紹介する儀式だった。そのときの動きは、今から思うと随分力が入り、緊張を私に感じさせた。同じ流派でも、概して海外では動きが派手で、余計な力を入れすぎるきらいがある。その師範もそうだったが、ちょこまかとした動きに、ポキッと折れてしまいそうな張りがあった。

 今回はそれを反面教師にしようと思い、試験に臨んだ。そう打ち明けると、四段を授けてくれた梅沢先生が「ああ」と応じた。

 「あの先生は口が達者だからねえ。まあ、いろいろあちこちつきあいもあって八段になれたんじゃないかなあ」

 「八段といと名誉職みたいなものですか」

 「いや、八段は八段なりの動きがあるよ。でも、あの先生の動きはそうじゃなかった」

 梅沢先生は国内最高位の九段で、この流派の形をすべてこなせる唯一の存在だ。その目で見れば、何段の動きというのがわかるのか。

 「形だけでなく、普段の動きでもわかるよ」

 「じゃあ、町を歩いてて、あいつは何段だ、強そうだってのはわかりますか」

 「いや、それはわからない。歩き方で、武道をしてるだろうってことがわかるくらいで」

 「じゃあ、構えたら?」

 「ああ、構えたらわかるよ。何段か、どの程度のものか」

 そういえば、梅沢先生は肩がいつもすっと落ちて、なんの力みもない。力を抜く。やはりこれが大事なのだ。

 

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