2010年9月号掲載
2003年7月、私はボリビアで奇妙な写真を撮影し、2つ目の物的証拠を手に入れた。正確に言えば、証拠ではない。「世の中には説明できない現象がある」と考えさせる材料だ。
最初の写真は2000年、南アフリカで撮ったもので、そこには極めて強い緑の光があった。そして、2度目は、オレンジの光が流れ女性の体を透明にしていた。最初の写真の中にいた書道の先生に聞くと、2度目のオレンジの光は「良からぬこと」の前兆であり、念仏を唱えたらいい、と私に言った。
一応従ったが、私は今もこういう解釈を話半分に聞いている。何かのお告げだと言う以上、なぜそう思うのか、そう感じるのかを説明しなければ、人は納得できない。なぜなのかと問うと、大方の答えは「見えます」「感じます」と言うだけである。つまり直感だ。直感は外れることがいくらでもある。おかしな現象に宗教的な解釈を加える人々の特徴は、その内容の正確さよりも、わからないことを強い口調で断定する大胆さにある。常識的な人、理性的な人にはできない断言が彼らの特徴ではないかと思う。
だが、こうしたエンターテイメントには需要がある。面白半分で話を聞く人、そして、考える前にまず信じる人がいるからだ。彼らの中には地球は自分のために回っているという感覚が身についている。例えば、何事もすぐに信じる人たちは、天気も自分がもたらしたものだと解釈する。「やっぱり先生が来られると、晴れますね」。冗談ではなく本気にそう語る人がよくいる。
気象をはじめ自然現象を操れると主張する「先生」は世界中に幾人もいて、それぞれが弟子を引き連れている。天気を決める神様がいたとして、こうした小さな「先生」の上の雲をいちいちどけなくてはならないとしたらさぞ大変だ、とは考えず、「すべては先生のために回っている」と信じ込む。
「自然現象も人間次第」という人間中心の考え方だ。それを唱えるのなら、それなりの説明がほしいが、大方は「この前、その前も晴れました」と言うだけだ。百歩譲って、雨乞いの呪術師のように人間が気象を左右できるとしても、たまたま近くに別の「先生」がいたかもしれない、とは決して考えない。自分の「先生」が全てになってしまうのだ。
おかしな自然現象に解釈を加えるなら、不可解なものを端から信じない人にそれを説明できなければ意味がない。信者だけに通じる内輪の了解にすぎないからだ。
その内輪の了解が本として行き渡っているのが聖書と言えるだろう。旧約にも新約にも、あらゆる奇妙なことが断定調で描かれている。キリストが水の上を歩いたとか、手をかざして病を治したり、死者を蘇らせたり、処刑された自分自身が復活したり、と奇跡のオンパレードである。コーランにも、預言者たちの奇跡が淡々と記され、とうの昔に死んだ人が現在も生きているということが、常識のように語られる。
一般にキリスト教徒もイスラム教徒もこうした「超常現象」を多かれ少なかれ受け入れている。キリストの十二使徒の長(おさ)、ペトロを初代法王に現在(2010年当時)のベネディクト16世まで、信仰者のヒエラルキーを連綿と築いてきたカトリックは、その性質が特に強い。彼らがイスラム教徒とある面似ているのは、権威者に重んじられる要素が、「祈りの強さ」や「他者の心の救済」といった曖昧な価値にあるところだ。
バチカン(ローマ法王庁)の9つの省の一つに列聖省がある。これは、近代から現代にかけての奇跡を一つ一つ検証し、それに関わった人を福者や聖者として推薦し、最終的に法王にその決定を促すための機関だ。
サン・ピエトロ(ペトロ)、サン・ジョバンニ(ヨハネ)など、キリストの使徒が聖者と呼ばれるのは、彼らが普通の人とは違う「聖なる力」を持っているからとされている。12〜13世紀に生きたイタリア中部アッシジのフランチェスコも、死ぬ前に手足に磔のキリストと同じ傷が出たことなどから、死後数年で聖者にされた。人々がいま彼の棺の前で祈るのは、単なる観光だけではなく、無病息災など新たな奇跡を求めてのことだ。
バチカンは聖人やその前段階の福者を量産してきたが、それを決めるポイントは、その候補者がどれほどの超常現象をもたらしたかにある。「先住民のマントに聖母グアダルーペ像がはりついた」「聖母の形の人形が光り輝き、重い病を治した」。そんな話が伝わる中南米やアフリカの聖地も、バチカンの専門家が何年も調査した末「本物の奇跡」と認めたところだ。ローマに居ればバチカンは身近だが、旧植民地にとっては雲の上の存在だ。その権威が認めた途端、メキシコの田舎町などが一躍、聖地となる。
2008年6月、列聖省長官のポルトガル人、ジョゼ・サライバ・マルティンス枢機卿(78)に「奇跡は本当あるんですか」と聞く機会があった。「もちろんあります。奇跡の検証は我々の仕事で一番大事なことです。マザー・テレサや前法王、ヨハネ・パウロ2世が偉大な人だったのは確かですが、それだけでは福者、聖者にはなれない。それに加え、彼らの周辺で実際に奇跡が起きていなければならないのです」
かっぷくのいい体に紫の法服が似合う枢機卿はこう続けた。「奇跡を一言で言えば、神が特定の人に残すスタンプ、消印です。奇跡を起こすことで、その人物が聖なる存在であることを、本人だけでなく周囲の人にもわからせ、確認させるのです」=この項つづく
●近著紹介
『酔いどれクライマー永田東一郎物語 80年代ある東大生の輝き』(2023年2月18日発売、税込1,980円)
優れた登山家は、なぜ社会で「遭難」したのか――。
圧倒的な存在感を放ちながら、破天荒に生きた憎めない男の痛快な人物伝
東大のスキー山岳部に8年在籍し、カラコルムの難峰K7を初登頂に導いた永田東一郎は、登頂を機に登山から離れる。建築に進んだものの、不遇のまま46歳で逝った。
1980年代、下町にこだわり続けた永田が放った自由さとは何だったのか。上野高校の後輩だった藤原章生が綴る一クライマーの生涯。