自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

信じる人にひかれて(その4)

2010年8月号掲載

毎日新聞ローマ支局長/藤原章生(当時)

 

 オレンジの光で女性の体が透けてしまったボリビアの写真。それについて小林芙蓉さんはそれを「良くないことです」と即断した。その女性に何か不運なこと、不幸なことが起きると。こういうのが私は好きではない。要するに占いではないか。「あなたの顔に死相が出てますよ」だの、「いまのは悪いお告げですよ」だの、そんなこと、どんな根拠があって言えるのだろう。それに結論がどう転んでも、答えは正しい。

 不運が起きれば、「ほら、言わんこっちゃない」となるし、起きなければ「私の忠告に従ったからです」「密かにおまじない、かけときましたから」とも言える。正答率100%なのだ。

 それでも写真が生々しいので、私はつい聞いてしまった。「で、どうしたらいいんでしょう」

 すると電話越しに小林さんはこう言った。「まず、その写真を燃やして、塩をかけて水に流してください」「燃やすって、デジカメなんですけど」「はあ?」「いや、デジタルなんでフィルムじゃないんですよ。パソコンに入ってますから」「はあ」

 2003年夏のことだ。まだ誰もがデジカメを持っている時代ではない。彼女はデジカメが何のことだか知らないのだ。

 「ま、とにかくですね、その写真を燃やして、水道でいいですから流してください、そのときに……」「はい」「光明真言て、ご存知ですか」「いえ」「念仏の一つなんですけど。これはオールマイティなんです。それを7回唱えて流してください」

 うわっ、ついに来た、と思った。私はこういうのが好きじゃない。育ちが悪いのだろう。お経になどまったく関心がないし、長いこと、馬鹿じゃないかと思ってきた。身内の葬式のたびにお坊さんがきて、ときに3人も4人も来て、「ナームアミダー」とハモったりすると、子供心におかしくてしょうがなかった。「ナーム」のところが微妙に長かったり、「アミダー」のところも、坊さんによって、「アミダーァーー」と変に苦悶混じりに延ばしてビブラートを入れたり、「アミダッ」と潔い感じに切れを良くしたり。3人が延々と重唱し、微妙に間を入れたり、大合唱になったり。

 大叔母の盛大な葬式のとき、私はひねくれた高校生だったので、「ジャズセッションか?」「だから何ナンダー」と心の中で突っ込みを入れていた。だから、大叔母の葬式の記憶はいまも笑いに包まれている。

 親も身内も信心などない癖に、葬式で念仏が終わるたびに、「あのお坊さん、いい声だったねえ、よく通る」「腹から出てたね、声が」「恰幅もよくってねえ」「まんじゅうも全部食べてったね」などと批評し合っていた。

 父親などは一度、突然、田舎の津山から東京に墓を移すと言いだし、「うちは天台宗だからね、なかなか寺がないんだよね」などと言うので、「天台宗ってどんなの」と聞くと、「うーん、何だろうね」などと真顔で言うのである。「なら、何でもいいじゃないか」と言うと、「いや、そういうわけにはいかないよ。やっぱり天台宗じゃないと」「で、何なの、その天台宗」「何だろうね」なのである。

 幸い、いまは自分で見つけた天台宗の寺の墓に納まってはいるが、いまもよくわかってないんじゃないだろうか。

 「短いお教ですから、覚えてください。おんあぼきゃべ……」「おんあぼきゃ?」「そう、おんあぼきゃべ、いろしゃの…」「何ですか、それ」「サンスクリット語ですから」「日本語はないんっすか」「サンスクリット語だけなんですよ」「サンスクリットじゃないとだめですか」「ええ、やっぱりねえ。でも、このお教、何度も何度も唱えると、力になりますから」

 「また、なんか変なことを言っている」と思いながらも、私は小林さんに言われるままにノートに書き写した。短くて覚えやすい。あとで調べたら、ネットにも載っているポピュラーな念仏だ。「これで不幸は起きませんか」「はい。大丈夫です」「でも、この写真はメールでその友達にも送ったんですけど、それはどうしますか」「メール?」「彼らも同じ写真を持っているんです」「ああ、そしたら、そのお友達にも言って、同じことをしてもらってください」「『おんあぼきゃ』ですか?」「はい」

 私は電話を切ると早速、写真を紙に印刷し、流し台に立った。塩を用意し、ノートを見ながらお教を読み、燃やした写真を水で流した。私のお教を脇で聞いていた妻が「何、それぇ、変なの。あははは」と笑っている。

 だけど、あの写真を見て、「わっ、お化け、怖い、小林さんに電話して」と言ったのは君じゃないの、と思ったが、私は無視して、目をつぶり真剣に7回唱えた。そして、すぐに写真の友人3人にスペイン語でメールを送った。光明真言をローマ字で書き、「これを読みながら、水に流すように」と伝えた。

 これでひと安心。「しかし、こういうのは怖いねえ」とも思った。人を簡単にその気にさせる。誰かに何か相談を持ちかけられたら「それは良くないですね」と言って、こちらのペースに乗せてしまえる。人を懐柔するのに絶好の手段じゃないか、と思えた。

 結局、例の写真の左側に映っていた20代後半の日系ペルー人の女性に不幸や不運は訪れなかった。それどころか、彼女はその後、念願のスチュワーデスになって活躍しているという。

 むしろ、不運は私に訪れた。その彼女は、「On abo kyabe……」と光明真言をローマ字で綴った私のメールを読んで以来、「なにあの人。変な人。怖い」と、もう二度と会ってくれなくなった。=この項つづく

 

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1980年代、下町にこだわり続けた永田が放った自由さとは何だったのか。上野高校の後輩だった藤原章生が綴る一クライマーの生涯。