自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

信じる人にひかれて(その6)

2010年10月号掲載

毎日新聞ローマ支局長/藤原章生(当時)

 

 不思議なことがあるもんだ。こんな一言で済ますような話をカトリックの総本山、バチカンは躍起になって「証明」しようとする。カギカッコをつけたのは、結局のところ証明などできないと思うからだ。

 ではなぜそれほど躍起になるのか。それは、証明しなければ、その奇跡を起こしたという人を特別な存在、福者や聖者として認められないという決まりがあるからだ。ある法王が素晴らしい人であった、というだけでは、福者にも聖者にもなれない。普通の人間にはできない「奇跡」「超常現象」をもたらした実績がなければならないのだ。

 仮にそんなことがあっても、真相がわからなれば、それで済ませばいいではないか、と思うが、信じる人たちは彼らを聖人とみなしたいのだ。バチカン側にしてみれば、聖人にすることで、信仰も深まり広がるという狙いがある。幾つもの現象を細かく分析し、結論を見出す手法ではなく、初めに結論があり、それに合わせて材料を集めるという手順のように私には見える。

 バチカンの列聖省のサライ枢機卿はこう言う。「例えば、ある人が聖職者を思い浮かべて祈ったら、病が治ったとします。それについて我々は何年もかけて科学的に検証するのです。一つの調査に平均5年もかけるのです」

 プラセボ効果という言葉がある。プラセボとは本物の薬と外見は同じだが、薬の成分が含まれていないもの、いわば偽の薬を指す。偽物でも本物と同じ結果をもたらすことをプラセボ効果と呼ぶそうだ。思い込みが症状を軽くするためだ。

 「聖なる治癒」「祈りの力」にも、暗示や錯覚が多いのではないだろうか。病は気から、何事も前向きなら免疫力がつくと言われるように、信じる者が救われる人間の自己治癒力だ。それを問うと枢機卿は待ってましたという表情になった。

 「問題はそこなんです。ですから私どもはバチカンの外から信徒ではない医師ら科学者20人ほどを選び、調査を依頼するんです。外部の厳正な審査で奇跡をはかるわけです」

 具体的にどう審査するのか。その基準を聞いてみると、意外なほど単純だ。「ある重病患者が祈りや聖職者の手当てで治った例を奇跡とみなすには、次の3つが備わっていなくてはなりません。素早さ、完全さ、そして効果の長さです」

 素早さは、祈ったり手を当てた途端に治ったという時間の短さだ。完全さとは、改善ではなくほぼ完治したことを指す。そして、効果の長さは、二度と同じ病に陥らないということだ。この3つは本人や周辺の証言で白黒つけられる。

 「それを踏まえた上で、医師や科学者が本人の診断や主治医の証言をもとに、回復の原因が医学的に説明できないと断定されれば、奇跡に一歩近づくのです」

 何かがおかしいとは思ったが、私は一応、「科学的判断」に当たる医師に話を聞くことにした。ローマ大サピエンツァ校医学部内科のピカルディ教授だ。

 「私たちが奇跡的な治癒を検証する場合、精神科から内科、外科ら大体5人の医師がかかわります。患者の自己暗示が治癒力を高める例もあるため、病理学的に細かく見るのが我々の仕事です。そして『科学的に証明しようがない』という結論に至ったものだけが残されるのです」

 そして、その残った事例が再びバチカンに戻され、今度は神学者たちの判断を仰ぐ。つまり、その「説明できないこと」に神学的な意味があるかを問うのだ。

 バチカンのグレゴリアン大で教会法を教える菅原裕二教授が詳しい。「神学的意味とは、そこに神の力が働いたかどうかということです。私たちはそれを客観的に計れないので、例えば、治った人がすぐに改心し、その後の人生で善行を働いたといった、人間的な面から判断するのです」と言う。調査に長い年月がかかるのはそれを見届けるためだ。

 枢機卿に話を戻せば、バチカンが言う奇跡とは「神が特定の人に押すスタンプ、消印であり、その人が聖なる存在だと、周囲に知らせるための証拠」である。だが、それを決める決定打は「科学では証明しようがない、わからなさ」に尽きる。

 ここまで来て私はどっと疲れた。証明がもう少し緻密なら、具体的な例を調べたいと思っていたが、結局、振り出しに戻ってしまった。単にわからない現象を人間が勝手に奇跡とみなしているにすぎないのだ。これは証明ではない。証明不能ということだ。

 科学でわかっていることなど限られている。宇宙や生命、人類の誕生から脳の仕組みまで、人間が知っていることはほんの一部にすぎない。そのわかっていることの国境線に立ち、線を少しでも前に進めるのが科学だ。国境の向こうの正体不明のものについては断定してはいけない、という取りきめが科学にはある。一方のバチカンはその国境のはるか向こうにあるものを、奇跡と断定する。

 不思議なことがあるもんだ。それは奇跡です。以上。という単純な話だ。はっきりしたのは、カトリックがこうした正体不明のもの、超常現象があるということを端から信じているということだ。そしてそれを踏まえた上で、正体不明の現象を自分たちの信仰の中で好きに解釈しても構わないとみなしていることだ。

 そこが私にはわからないし、やや幻滅してしまうところだ。=この項つづく