2010年7月号掲載
次に映った写真は最初のものより異様だった。それは2003年の7月のことだ。その前の年、02年の4月に東京からメキシコ市に赴任した私は、日系ペルー人の議会弁護士、アントニオ・アロステギ・ヒラノさんに誘われ、ボリビアのサンタクルスという町に来ていた。米大陸、カナダからアルゼンチンまでの日系人、特に2世以降の人々が集まる2年に一度のパンアメリカン日系大会が開かれていたのだ。
同じ日系人であっても現地の人と結婚している人も多く、顔つきもさまざまだ。それに国によって生活、暮らしぶり、日系人が置かれた社会的地位も違うため、みなそれぞれの国民性を背負い込んでいる、私にはそれが珍しく、各国のさまざまな職種の人にインタビューし、新聞の企画記事にしようと思っていた。
3日間の会議も終わり、サンタクルス近郊にある沖縄出身の日系移民が開いた農場に行き、夏祭りに参加した。まだ7月だったが、そこでは焼き鳥やおでんが出され、一足早い盆踊りが行われていた。
私が座っていたテーブルには、アントニオと、やはりペルーのリマから来ていた日系3世の女性2人が座っていた。一人は30代の弁護士でもう一人は旅行代理店で働いていた20代後半の女性だった。すでに日は沈み、みなビールを飲み、少し上機嫌になっていた。私は普段、カメラを常にかばんに入れてあるが仕事の写真ばかりで、家族でもいない限り記念撮影はまずしない。でもそのときは、どういうわけか目の前に座っている3人の姿を美しいと思い、写真を撮りたくなった。
小さなデジタルカメラだった。現在のカメラのように撮影した写真がすぐに液晶画面に映るというものではなく、撮影直後、ファインダーの中に画像が映り、1、2秒後に消えるタイプのものだった。
私は3人に笑ってと声をかけ、一枚撮影した。自動でフラッシュが焚かれたが、ファインダーの中に映った画像はぼんやりとオレンジ色に輝き、ボケているような気がした。何だろうと思い、もう一度シャッターを押した。今度もやはり、全体がぼんやりと茜色にかすんでいるようなので、さらに2枚続けて撮影した。
カメラの調子が良くないのかな。そう思って、私は画像を確認せず、カバンにしまった。それからしばらくしたら、着物姿の女の子が舞台の上で踊りだしたのでそれも一枚撮った。ところが今度はごく普通の写真のように、バックが暗く、人物だけに光が当たりうまく撮れた。
その晩、ホテルに帰り、ベッドに横たわると変な感覚に襲われた。「シャー」という渦のような音が耳元でずっと鳴っているのだ。砂浜の波打ち際で、寄せて返す波が引くときに鳴る、泡のような音だった。耳鳴りだろうかとも思ったが、私には耳鳴りの経験がないので、それが体内なのか外界の音なのか見当がつかなかった。
さらにおかしいのは、私の頭頂部に何かが触れているむずむずした感覚があり、まるでホテルの天井を突き抜けた上空から私の頭めがけて何かが降り注いでいるような感じがした。いや、降り注いでいるというより、頭頂部と上空の何かが繋がり、その間を何か見えない物質、宇宙線のようなものが往復しているような感じだ。頭を手で覆ってみても同じだった。ボリビアは赤道直下の国だ。その分、地球の自転の遠心力は大きい。それと何か関係があるのだろうか、などと考えてみたが、よくわからない。
その後、私はコロンビアに飛び、左翼ゲリラの取材などをして1週間後にメキシコに戻り、カメラの中の写真をコンピューターに入れた。パソコンの画面で見て初めてボリビアで撮った4枚の記念撮影の異様さが明らかになった。
写真の中の女性2人とその右側にいる男性は濃いオレンジ色の光に包まれていた。続けて撮った4枚の写真はどれも、一番左のいた20代後半の女性から光が発しカメラの方に向かってきているように見えた。光が出るパターンが南アフリカのときと同じだった。ただし、南アのときの緑の光のように強くはなく、動きも緩く、もわもわっと流れてきているように見える。と言っても60分の1のシャッタースピードの間の動きなのでそれなりに速い。
それだけなら大して驚く話でもないのだが、そのオレンジの光のせいか、一番左の女性の体が透けているのだ。体が透明になり、プラスチック椅子の背もたれが見えている。中央の女性も頭が透けていて奥にある林の木が頭の中に見える。
オレンジ色の光は、幅1㍍、長さ3㍍ほどの帯状の靄のようで、画面全体を占めている。同時に、辺りには発光体のような明るい幾本もの光が画面のあちこちで、スパークしたような動きを示している。テーブルに置かれたコーラなどのペットボトルを通り抜け、その中を無数の細い光線が小刻みに震えながら通り抜ける軌跡が見える。そして、一枚には体の透けた女性の顔の脇の陰に少女のような小さな丸い顔が見え、その目がじっとカメラの方を見ているように見える。
「えっ、何、これ、体、透けてるじゃない。あり得ないよ、こんなの。お化けよ」。妻に見せるとやはり、前回と同様怖がり、すぐにお化けだと決めつけた。「あの大阪の小林先生に電話した方がいいんじゃないかな。何か聞いた方がいいよ」
長くこちらからは連絡していなかったが、私は思い切って電話を入れてみた。「もしもし」。電話の彼女はこんな反応だった。「どうしました? 何かありましたか? 大丈夫ですか?」。何かこちらに良からぬことが起きるのを予想していたような、心配しているような口ぶりである。「いや、先日、ボリビアという国でね、写真を撮ったんですが」「何かまた映りましたか」
こういう、さも何かを悟っている口ぶりに警戒しつつも、「いや変な光が映りましてね……」と応じると、彼女は「どんな光?」とも「どういうふうな」とも聞かず、間髪をいれず、こう聞いてきた。「それは何色ですか?」
「この前は緑だったんですけど、今回はオレンジです」「ああ、良くないですね。それは良くない。大丈夫ですか、藤原さん」「はあ?。僕は大丈夫ですよ」「その光はどこから?」「多分、写っている一人の女性の辺りから……」「あ、それは良くないというか、その女性に何かねえ」
その女性が病気をしていたり、あるいは不運な目に遭っていたり、そんな可能性がある場合、そういう光が出るのだと言う。「別に、ぴんぴんしてますよ」「いや、でもね、それは生き霊(りょう)と言いましてね。その女性が、というよりその女性の生き霊が助けを求めているんですよ」「誰にですか」「藤原さんにですよ」「やめてくださいよ」
そこまで話して、少し後悔した。3年ほどの間に2枚の奇妙な写真を撮り、クリスチャンに「近寄らない方がいい」と忠告されていた。その小林さんの世界に、また一歩近づきそうな気がしたからだ。私は生き霊など信じない。だが、この写真は、この物的証拠は一体何だ、という好奇心には勝てず、途絶えていた彼女との関係が、そのとき、再開してしまった。=この項つづく
●近著紹介
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1980年代、下町にこだわり続けた永田が放った自由さとは何だったのか。上野高校の後輩だった藤原章生が綴る一クライマーの生涯。