2012年6月号掲載
さほど熱っぽさもない、ほどほどの国。先進世界の片隅でそれほど強いインパクトのないイタリアにいたから、戻ったばかりの日本に違和感を感じないのではないか。
前回、そんな話を書いたが、あれから1カ月がたち、東京生活も40日が過ぎると、理由はそう単純でもないような気がしてきた。
先日、福島市にいる友人に久しぶりに会い、「今回は全然、日本の雰囲気に抵抗がない。最初からなじんだ感じがあるよ」と話したら、「そう言えば、前メキシコから帰ってきたときは、なんかイライラしてて、文句ばかり言ってたよ。今回は顔もリラックスしている感じ」と言われた。
そのとき、「相対化」という言葉がぽっと湧いてきた。これは以前、ある編集者が使った言葉で、彼は「藤原さんの原稿を読んでいると、海外の話なのに、日本が相対化されてよく見える気がする」というふうに使っていた。要は、日本をそれ一つの絶対的なものとしてではなく、アフリカ、ラテンアメリカと比べることで、「相対的」に描けるということだ。
その言葉から思い浮かんだのは、数学や力学で使う座標軸だ。空間の中での位置を決める際、X軸、Y軸、Z軸という座標軸を使い、(X、Y、Z)は(1、7、3)という風に座標を決めるのだが、日本だけを絶対のものとみなしている場合、座標軸は1本だけで(1)としか表せない。そこにアフリカ、ラテンアメリカという別の軸が加わると、その位置が3次元的になりよりはっきりするといったイメージだ。
例えば、90年代、アフリカに来た黒柳徹子さんが「電車の中で大声で電話でしゃべったり、化粧までしている女の人がいるのよ、信じられないでしょ」とバブル崩壊後の日本社会の堕落ぶりを身振り手振り、短いコントを交えながらオモシロおかしく嘆いていたことがある。
こうした日本の出来事、広まりつつある現象について、アフリカはどうか、ラテンアメリカはどうかと比べてみると、それほど突出した珍しいことではないということがわかるという話だ。
そのたとえを続けると、私の場合、そこに南ヨーロッパという軸が加わったため、4次元、力学では時間軸、t軸が加わった状態とも言える。つまるところ、日本の電車の中の雰囲気について考える場合、3か所の別の文化と比べることになるので、日本の位置をより相対的に見ることができると言えるわけだ。だとすれば日本の位置や変化もそれほど際立たず、平準化されてくる。
「そうか、相対化がより強まり、完璧に近づいたわけだ」と、ひとりほくそ笑んでいたら、この春ロンドンから戻った私と同年代の同僚も「僕も……、今回は違和感なく、すっと戻れた感じがするよ」と言いだした。彼は最初にロンドンに赴任し、一度帰国したあと、ワシントンに行き、再び帰国を経てロンドンに行って、今回帰ってきた。軸は英米の2本で、私より1本少ない。英米を同じアングロサクソン世界とみなせば、1本しか持っていないのに、私と同じ印象を持つのが面白くない。せっかく思いついた「相対性理論」が揺らいできた。
彼が言うには、「もう、50もすぎ年も年だし、これで外に出ることもないし、あとは日本に住むしかないということで観念したんじゃないかな。単身赴任だったせいか、ロンドンにいたときのことが夢のできごとみたいだ」とすっかり枯れたオヤジのような、身も蓋もないことを言う。だが、思い当たらないこともない。
私もローマを出るとき、ボロという歌手の「大阪で生まれた女」を替え唄にし、半分ふざけて、♪これで特派員も終わりかなと思ったら、泣けてきたあ♪などとうそぶいていたのだが、終の棲家はいまだにどこかわからないが、いずれにしてもしばらくは日本にいることになるわけで、それならできるだけいい面を見て、この世界に慣れていくしかないんじゃないか、という心理的な面が働いたのかも知れない。
人間は楽な方に流れるものだ。脱獄を繰り返す男をスティーブ・マックイーンが好演した映画「パピヨン」のダスティン・ホフマンではないが、「ここ(絶海の孤島の監獄島)の暮らしも悪くないよ。ニワトリを飼って、野菜を育てて、天気もいいし」と自分をだまし、自ら与えられた運命を受け入れるという姿勢だ。
だが、パピヨン役のマックイーンはそれに甘んじず、その島からの脱出に成功し、ヤシの木の小さないかだの上で、「俺は自由だ!」と叫んでエンディングとなるわけで、私は同僚の話に頷きながらも、「お前はダスティン・ホフマンだろうが、俺はマックイーンだ!。絶対に老いぼれないぞ、老境なんてくそくらえだ!」と叫んでいた。
と、そこに携帯電話が鳴った。インタビューを申し込んだ作家の曽野綾子さんからだった。「久しぶりの日本、どうですか?」と聞かれたので、かくかくしかじかと答えたら、「あら、そう、面白いですね。でも、最近は日本でも電車の中で化粧する人、減りましたし、本を読んでいる人も増えましたね、高齢者が多いですけどね」などと応じた。
私の側の座標軸でも心理でもなく、日本人、日本社会が変わったのかもしれない、とも思えてきた。例えば満員電車では、相変わらず携帯を手に狭い自分だけの空間に閉じこもってはいるが、5年前と比べ人の間に緊張がないように思える。一触即発の怖さがない。やはり、もう少し見てみる必要がありそうだ。
(この項つづく)
●近著紹介
『差別の教室』(2023年5月17日発売、税込1,100円、集英社新書)
心に貼りつく差別の「種」は、
いつ、どこで生まれるのか。
死にかけた人は差別しないのか──?
新聞社の特派員としてアフリカ、ヨーロッパ、南米を渡り歩いてきた著者は、差別を乗り越えるために、自身の過去の体験を見つめ、差別とどう関わってきたか振り返ることの重要性を訴える。
本書では、コロナ禍の時期に大学で行われた人気講義をもとに、差別の問題を考え続けるヒントを提示。世界を旅して掘り下げる、新しい差別論。