自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

森一久さんのこと(その2)

2011年3月号掲載

毎日新聞ローマ支局長/藤原章生(当時)

 

 「あれは何だったのか」「どういう意味だったのか」。当時81歳の森一久さんは、そんな言い回しをよくする。科学者出身だけあって、何かを言いきらない人だった。必ず別の可能性があるという考え方は私にも合い、言葉の通じる人だった。
 京都大学の恩師、湯川秀樹氏についても、感傷的になったり自慢したりはせず「どういうことだったのか」「なぜ、そうなったのか」と問い続けていた。常に何かを探る姿勢がそうさせるのか、森さんは学生のようににこやかに笑い、偉ぶらない人だった。戦前の育ちのためか、言葉は丁寧だが、気さくで温かみがあった。
 気にしたのは、なぜ湯川氏が自分に目をかけてくれたのかということだった。
 「当時、僕が勤めていた中央公論は東京駅のそばにあったせいかもしれないけど、よく訪ねてくれましてね。京都から上京するたびに声をかけてくれたし、ホテルグランドパレスができたとき(1972、昭和47年)には最上階のレストランで食事をしたり、二人で箱根に旅行したこともありました」
 そこまで言うと、森さんは、少しくだけた調子になり、「私」「僕」という一人称を併用しながら語りだした。
 「やっぱり天狗だから、天狗って言うか人間だから、見込みがあるから私をかわいがってくれたんだ、という気持ちがどうしても働くわけですよ。でも、その後、いろんなことがあって、それだけではなかったなと」
 考えられる一つの理由は森さんが被爆者だったことだ。
 「湯川さんにしてみれば、『森君の家族は原爆で全部死んで』という思いもあったでしょう。当時は東京、大阪が空襲でやられて、次は広島の番だと言われて。僕は両親のために、京都から広島に戻ったんです。父は68、母は62で、当時としては老人でしたから。それで8月3日に広島に帰って、6日の朝、寝てたらガッとやられたんです。うちは爆心地に近くて、生きている人はほとんどいませんでしたね。
 それでも私だけ残って、5人の消息を求めて歩き回って。私自身も白血球の数が700まで下がって。死んでるのが当たりまえなんですけど、なんか知らんけど。あのころは薬もないのに、何とか回復して」
 湯川氏をはじめ、京都の人たちはみな、森さんも原爆で亡くなったと思い込んだ。
 「みなそう思ってたんです。次の年の3月に大学に顔を出したら、『え、生きてたか』『良かったね』ということになって。それで、湯川さんは僕に対してある意味……。それとも私の卒業論文が気に入ったのか、その辺がわからなかったんですよ」
 ところが、それから半世紀近くが過ぎたころ、考えられる新たな理由が見つかった。
 「意外なことが、年とって、何十年もたってわかるんですよ。でも、確かめようと思っても、もうみんないないんですよ。これだけ申し上げておきますけど、やはり広島出身で私と一緒に入学した人が、新型爆弾が落とされるから、家族を疎開させた方がいいと言われていたんです。
 アメリカでは最初の原爆を京都か広島にという話があって、(1945年の)5、6月ごろに、選定委員会があって、広島に落とされるという情報が事前に日本の一部に流れてきたようなんです」
 それは私も初めて聞く話だった。ちょうどそのころ読んでいた「暗闘」という本に、原爆投下が決まるまでの細かないきさつが書かれていた。だが、情報が日本にも入っていたという話がもし本当なら、新事実だ。
 「もう少し詳しく話せばね、その男は科は違うんですけど私の同級生で、担当教授に聞かされて、6月に広島に帰って家族を疎開させ、全員助かったんですよ。
 その男は小学校も中学校も高等学校も私と同じなんですが、あるとき同窓会の会報でその(疎開の)話を書いているのを見たんですよ。それで久しぶりにその人に会ったんです。
 もちろん、あの当時、アメリカは、日本の上空で早く降伏しろとか、そういうビラはまいていたんです。でも、それだけではなくて、アメリカが原爆をつくっている噂は確かにあったんです。実験成功は5月ですが、日本は知らなかったですからね。いくらアメリカで金をかけたらかと言って、1年ではできないというのが常識的判断だったんです」
 そこまで話すと、森さんは少し感情を込めてこう言った。
 「だから本当に私の経験というのは運命ですわ。朝、まだ寝てたわけです。8時だったから、おふくろが『ちょっと挨拶に行ってくるから寝てなさい』と言って出て行ったのは知ってたんです。それから姉貴夫婦、姪が一人。父も寝てたんです。即死したらしいんです。らしい、しかわからないんです。私以外はみな死んだんです」
 森さんは少し恐縮しながら「どうも、余計な話をいろいろしまして」と言った。
 本当に「事前情報」はあったのだろうか。私はその同級生に話を聞こうと思った。

=つづく

 

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