自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

高所の歩みは夢のよう

2019年12月号掲載

 毎日新聞夕刊報道グループ記者(当時)/藤原章生

 

 入山から25日目、私たちはようやく第3キャンプに入ることができた。標高7,300㍍の急斜面をスコップで切り開き、3人用のテントに5人が膝を抱えてなんとか収まった。ここで3時間休み、いよいよ私たちはヒマラヤのダウラギリ1峰(8,167㍍)を目指す。

 キャンプからの標高差は900㍍だが、高所で酸素が地上の3分の1程度しかないため、おそらく早くて12時間、遅ければ15時間はかかる。下山は3時間ほどで済むかもしれないが、その頃は相当疲れているだろうから、滑落死や疲労凍死の不安があった。

 テントにいたのは40代と20代のシェルパ2人と、やはり20代のシェルパ見習い、そして私たち50代後半の日本人2人だ。シェルパはネパールの山岳民族の名前だが、高所に強い彼らは長年、ヒマラヤの遠征隊を支えてきたため、今はその名が山岳ガイドを指すようになった。シェルパ見習いの男は本来、ベースキャンプにとどまる料理人なのだが、ガイドの経験を積むため頂上を目指していた。

 標高2,670㍍の村、マルファから4,600㍍のベースキャンプまではつぶさに覚えている。だが、入山から10日後にたどり着いた標高5,745㍍の第一キャンプより上は、まるで夢の中にいたように、記憶がぼんやりしている。高度障害の中で歩いたせいか、サングラスを通してみるクリーム色の雪と、その上にある灰色っぽい足跡、そして異常なほど濃い青空、スパッと刃物で切り落とされたようなヒマラヤ襞。そんな景色が幻影のようだった。時折、雪崩の爆音が聞こえてきた。

 私は自分の気質に気づかされ、それと必死に闘っていた。

 「人に負けまい、抜かれまい。先へ先へ、もう一歩高みへ。100%の自分よりも10%、いや20%多く頑張らねば」。日本で登山している時に顔を出すそんな私の意識がかえって高度障害を招く。むしろ自分の能力より20%遅いくらいがちょうど良い。

 それでも急な斜面を登っていると、いつの間にか頑張る自分が顔を出し、はっと我に返る。

 なぜ、自分はこんななのか。頑張っている自分を見ている誰かがいるのか。実際はそんなものはいない。ずいぶん調子よく歩いているとシェルパから「グッドワーキング(すごねえ)」などと褒められ、一瞬嬉しくなるが、彼らが常に自分を見ているわけではない。むしろ、もう1人の自分が自分を見て、「よし、お前は強いぞ、その調子だ」といった声援を送っている感じなのだ。

 でも、それは本当の自分ではない。歩いている自分自身が自分なのだ。なのに、その本当の自分が、他人の視線を象徴するような「もう1人の自分」に促され、後押しされ、無理をする。

 それが自分の弱点だと気づき、私は本当の自分に向かって繰り返し言い続けた。「もっと自分自身であれ、自分のためにあれ」

 こういう感覚は日常生活でもときどき起きるが、これほど強烈に自分を感じることはない。

 「高所の歩みは夢のよう。その夢を繰り返し見ることで現実に近づいていく」。6,600㍍まで達した末、一度ベースに降りた際、私はそんなことをメモ帳に書いた。高山病で一番怖いのは肺水腫と脳浮腫だ。私は新しい高さに達したとき2度ほど頭痛に襲われたが、そこまでひどい状態にはならなかった。ただし、酸素不足のため、脳が普段のように働いていないのは実感できた。

 脳の働きが明らかに落ちると、自分というものはよりシンプルになるのだろうか。自分の気質の欠点がよりあからさまになり、とにかく「無理をして頑張る自分」を抑えるのに苦労した。

 最後のキャンプで私たち5人は上機嫌だった。単に7,300㍍という高さに興奮していたのかもしれない。

 日が落ちると一気に寒くなり、マイナス10度を下回った。同じ温度でもこの高さではより冷えるように思えた。

 行動時間が20時間におよぶため、出発は午後8時を予定していた。午後7時を回った頃から吹き始めた風が急に強くなってきた。「少し待とう」としばらく様子を見ていたが、風はどんどん強まった。「深夜の出発にしよう」と座ったまま仮眠をとったが、12時を過ぎても、そして明け方になっても風は収まらなかった。シェルパ同士がベースとの無線でやり取りしたところ、頂上付近は風速40㍍もの強風が数日続くとの話だった。予報では無風だったのに。

 標高8,000㍍で15時間、強風にさらされ続けるのはとても無理だ。どうするも何もなかった。私たちの中で一番経験のある40代のシェルパの一言、「無理だ」で撤退が決まった。

 風が吹きテントがバタバタいい始めた時、「あ、これで少し休める」とホッとしたが、登頂を断念した時もどういうわけか、さほどがっかりはしなかった。むしろ、「ああ、これで生きて帰れる」と思い、救われた気持ちになった。

 翌朝、私たちはテントをたたみ、そこから固定ロープにぶら下がり、急斜面を一気に下っていった。それはそれでしんどい下山だったが、下へ下へと降りるにつれ、私は素直に、生きている喜びを感じていた。

 人間は弱い。そういえば聞こえがいいが一般論では語れない。

 自分は弱い、心身ともに本当に弱いと痛感する登山だった。普段ならごまかしが効く。でも、8,000㍍は私自身の弱さを深く、リアルに感じさせる場だった。

 

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8,000mで何が起きるのだろう

2019年11月号掲載

 毎日新聞夕刊報道グループ記者(当時)/藤原章生

 

 この秋、2カ月の長期休暇をとり、ネパール・ヒマラヤのダウラギリ1峰(8,167m)に登りに行くことにした。といってもどこまで登れるのか。かなり難しそうだが、目指せるところまで目指そうと思う。

 私は23歳の秋にインド・ヒマラヤのスダルシャン・パルバット(6,507m)に登ったことがある。当時、大学山岳部の学生とOBたち8人で2年がかりで準備をし、誰も登ったことのない岩と雪のルートから、3度に分けて全員が登頂できた。

 この直後、私の中で急速に登山熱が冷め、再びヒマラヤに戻ることはなかった。熱が冷めたと気づいたのは最近のことで、就職してからも、家族ができてからも山とは常に付かず離れずの状態が続き、ハイキングから岩登りまで、比較的柔らかめの山登りを一応は続けてきた。

 52歳になる2013年春、たまたま福島県郡山市に転勤となり、一人暮らしをするとほどなく、本格的な登山に戻りたいと思い始めた。そのためにはザイルを結び合う相棒が必要になる。ネットで探してみると、会員数が40人と比較的多い「郡山勤労者山岳会」にぶち当たった。快く受け入れてもらった私は再び沢登りや岩登り、冬山を楽しむようになった。

 技術、体力とも優れている会員に斎藤明さんという私と同じ年の人がおり、一緒に登るうちに、彼からヒマラヤに誘われるようになった。郡山市で社員4人ほどの保険代理店を経営する斎藤さんは、60歳になったらヒマラヤの8,000m峰を登り続けるのが夢で、そのための蓄えもしているという。斎藤さんは18年前にマナスルを無酸素登頂し、5年前にはアンナプルナを目指したが、仲間の事故で失敗し、今回は3度目の遠征となる。

 私は一度ヒマラヤから気持ちが離れたこともあり、さほどの吸引力はなかったが、8,000mに惹きつけられ、誘いに乗った。

 標高8,000mを超える山は14座しかなく、そのすべてがヒマラヤ山脈と、そこに派生するカラコルム山脈にある。最も高いのがエベレスト(8,848m)で、これにK2(8,611m)、カンチャンジュンガ(8,586m)、ローツェ(8,561m)、マカルー(8,485m)と続く。

 この下となると一気に標高が下がるチョー・オユー(8,188m)となり、その次に世界第7位のダウラギリ1峰(8,167m)がある。

 8,000m峰は登山家を寄せつけず、幾人もの死者を出した末、1950年代から60年代にかけて14座すべてが初登頂された。この時点で、探検としての登山は終わったと言われたが、その後、垂直の壁など難しいバリエーションルートや酸素ボンベを一切使わない無酸素、または単独、厳冬期と、あえて困難な方法での「初登頂」が競われ、それも今世紀に入るころには、やり尽くされた。

 つまり、ヒマラヤは人類史上初めてのことを成し遂げるパイオニアワークの舞台ではなくなったのだ。

 それでも、山登りはもともと個人的な享楽、自己満足という面が強く、ヒマラヤ人気が廃れたわけではない。例えば、イタリアの登山家、ラインホルト・メスナーは1970年から86年の間に、8,000m峰14座のすべてを無酸素で登頂する記録を達成し、多くの登山家が同じ難行を目指し、その途上で死んだ。

 「7大陸最高峰の登頂」がメディアで話題になった時期もあったが、エベレストを除いた「最高峰」はさほど難しくなく、14座登頂とは雲泥の差がある。それでも、それを目指すのは個人的満足の典型と言える。

 スキーヤー三浦雄一郎さんが達成した最高齢でのエベレスト登頂もスポンサーの資金でヘリコプターや酸素ボンベを多用し、実質、6,000m台の山と同じ条件で登ったにすぎないが、これも好き好き。個人的な挑戦という面が強い。

 私が今回、ダウラギリを目指すのもあくまでも自己満足に過ぎない。20代のころ、4,500mで一度ひどい高山病になったが回復し、6,500mの頂上ではタバコをスパスパ吸うほど調子が良かった。それでも、それは昔のことであり、経験にも数えられない。現在58歳半の私は筋力はおそらく20代のころより2割ほど衰えてはいるが、心肺機能をはじめとした基礎体力はさほど落ちてはいない。

 その私がダウラギリをどこまで登ることができるのか。7,000mを超えられるだろうか。そこを超えたとき、自分はどうなるのか。登山のために一応鼻の手術は済ましたが、高所である程度睡眠をとることができるのか。

 最後は一歩足を上げては呼吸を10回繰り返し、再び一歩上げてを繰り返す。そんな状態になったとき、どこで諦めるのか。あるいは最後は妥協して医療用に持ち込む酸素ボンベに頼ろうとするのか。高所では空が群青になる。その下で頭が朦朧とした状態で、はるか彼方のピークを見ながら、自分はどこまで自分を追い込んでいけるのか。そんなことを試すための登山にすぎない。

 メスナーが「死の地帯」と呼んだ8,000m以上の世界を知りたいという好奇心も大きい。

 何よりも1カ月半、毎日登山を続けることで、自分の体と精神がどう変わっていくのか。それを知るのが楽しみだ。

 

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「鼻こそは全て」と言えるのか

2019年9月号掲載

毎日新聞夕刊報道グループ記者(当時)/藤原章生

 

 この夏、長期入院を経験した。といっても6泊7日なのだが、こんなに長いこと病院にいたのは初めてなので、つい「長期」と言いたくなる。副鼻腔炎と鼻中隔湾曲症の手術。要は鼻で呼吸ができるようにするためのものだった。

 私は幼いころから鼻の通りが悪く、いつも口で呼吸をしてきた。鼻の詰まりがさほどでもなければ鼻だけで呼吸できないこともないのだが、気を抜くと口だけで息を吸っては吐いている。

 子供の頃からいつも呆けたように口をポケーっと半開きにしていた。幼稚園のころまではよだれもひどく、気づくと下唇の下側の縁から雫が垂れるか、それを必死になってすする動作を繰り返していた。幼稚園の年配の教員に「病院に診てもらった方がいいんじゃないかしら」と言われた母が激怒するという、一家にとってはちょっとした出来事もあった。

 幼稚園の先生は、当時の言い方をすれば「知恵遅れ」がよだれの原因と考えたようだが、これも単に口呼吸が原因だったように思う。「垂れるよ、垂れるよ」と母親に嘲笑ぎみに何度となく注意され、あわててすすり上げるという行為を続けるうち、小学校2年ごろにはそれほど垂らさなくなった。

 このため口呼吸が問題にされることもなく私は成長していったが、高校2年のころ、いつも通り口を半開きにしてテレビ映画をみていたら、それに気づいた5歳下の妹が「やーい、口ポケー」と執拗に私をバカにするようになった。そのたびに我に返り、口を閉じていたが、テレビに熱中すると途端に口が開く。すると脇から妹がその都度、「口ポケー」とあざ笑った。

 そのことを先日、妹に話したら、「えぇ、あたしが? そんなこと言うはずないよ。何それ。誰か違う人じゃないの」と逆にキレられたので、大いにたまげた。いくら当時まだ子供だったとはいえ、「口ポケー」というあだ名までつけて嘲笑した者が、その事実をきれいさっぱり忘れているとは、どういうことだろう。加害者の記憶とはそんなものかとも思うが、記憶にないというのが恐ろしい気さえした。

 別の話の流れで「Y子(妹の名)、性格悪いからな」と言ったときも、「えっ、何それ。あたしが性格悪いはずないじゃない。誰からもそんなこと言われたことないよ」と寝耳に水のような反応をするので、こちらも慌てて否定したくらいだ。やはり、人間は不可解だ。

 私は高校を終えると家を出たので、妹の「口ポケー」を聞くのは帰省した折くらいだったが、以後現在まで、口を半開きにしていると気づいた途端、妹の意地の悪い声色がよみがえり、あわてて口を閉じるという癖が身についた。

 口呼吸の問題をいやでも気づかされたのは高校2年の冬だった。高校の駅伝大会で「区間2位」という好成績を収めた私は一時、競技にのめり込んでいた。ラストスパートからの1分間、心肺が張り裂けそうになるほどの苦しみを毎回味わうこのスポーツに私ははまり、少しでもスピードを上げようと躍起になった。そんな折、教員から鼻で2回吸い、口で2回吐く呼吸パターンを勧められ、何度となく試したが、鼻では十分な酸素を取り込むことができず、結局、口だけになってしまった。

 最近、駅伝の選手をテレビで見るとブリーズライトなど鼻呼吸を楽にするテープを貼っていたりするので、あのとき私がもし鼻で呼吸できていれば、「区間賞」が取れたかもしれない、と今更ながら思ったりもする。

 そのころからかれこれ40年、私はずっと口呼吸で生きてきたが、半年前、ヒマラヤに行く準備のため低酸素室に入ったところ、睡眠時の酸素摂取が異常に低いと知らされた。いわゆる無呼吸症候群というやつで、寝ているときに10秒以上も呼吸が止まるのが1時間に20回もあるという。

 こんな状態でヒマラヤに行っても、8,000メートルはおろか、6,000メートルでも十分に寝られない、致命的な状態だとわかった。私は耳鼻科に通い、積年の副鼻腔炎を治す投薬や、睡眠時に喉をより開かせるマウスピースを装着したが、抜本策にはならず、今回、思い切って鼻の骨や軟骨を削り、気道を確保する手術を敢行した。

 鼻のあたりをメスやドリルでガリガリ削るものだから、麻酔が切れ意識が戻った時の痛みはひどいものだった。まるでロールシャッハテスト状に鼻を中心に目から頬、脳、首、肩まで、ネットワーク状に痛みが広がった。その痛みは経験したことのないものだったが、黙って痛みに耐えた。そのうち、痛みにも慣れ、何度かの高熱を経て、2週間あまりが過ぎた今は、軽い頭痛にまで後退した。

 鼻の通りは格段によくなり、直径1ミリに過ぎなかった気道、小さなホースが一気に10ミリに拡大したようなもので、そこに流れる通気量は単純計算でほぼ100倍になる。

 目から鼻に抜けるとは、こういうことか。鼻とは人間にとってこんなにも大事なものだったのか。全ての神経が集中している鼻こそが全て、鼻こそが生き物の中心である、と思えるほど、生まれて初めて鼻呼吸を味わっていた。

 それでもどうしたことか、長年の習慣なのだろうか。鼻が太いホースになった今でも、ふと気づくと口をポケーっと開けている自分がいる。

 「口ポケー」の声ですぐに改めるのだが、放っておくとまた開く。これは一体なんなんだろうか。物理的には鼻が通っているのに、あえて口で呼吸をしたがるナンセンス。これはどういうことなのか。もう少し自己観察が必要なようだ。

 

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差別する心、そうではない心

2019年8月号掲載

毎日新聞夕刊報道グループ記者(当時)/藤原章生

 

 ハンセン病の元患者や家族への差別に対する国の責任を認めた今年6月の熊本地裁判決を、国側が控訴しない方針を7月9日に発表した。患者を隔離し、偏見をなくすための教育を怠った国が責められるのは当然だが、「住民にも責任」という毎日新聞の見出しが目を引いた。

 「差別を除去する責任は国だけではなく、『無らい県運動』の実動部隊となった都道府県や住民にもある」という内田博文・九州大学名誉教授のコメントに添えられたタイトルだった。

 世界中にはあらゆる差別がある。状況は年々改善されているかに見えるが、トランプ米大統領誕生に象徴されるように、いまだに意図的に差別や偏見を政治の道具に使う例が少なくない。法律や制度上の差別が真っ先に問題にされるのは当然だが、それにどう反応するかは、ひとり一人に負うところが大きい。

 ハンセン病と聞いて私が思い出すのは映画作品だ。松本清張原作の映画「砂の器」(1974年)の加藤剛演じる主人公は新進の音楽家として活躍しているが、ハンセン病にかかった父親(加藤嘉)と共に村を追われた過去がある。主人公は過去を隠すために、育て親でもあった実直な男(渥美清)を殺してしまう話だ。私は、自分の出世の妨げになるからと渥美清を殺してしまう加藤剛に感情移入ができなかった。渥美清は善人を絵に描いたような男で、今は大成功している加藤剛が懐かしくなり、ただ訪ねたにすぎない。「おじさん、父のことはどうか口外しないでください」「わかってるよ」で済んだ話だ。ハンセン病患者への差別がひどいからと言って、なぜ殺人を犯してしまうのか。そこがこの作品の根本的におかしいところだ。

 ハンセン病とは関係ないが、森村誠一原作の映画「人間の証明」では、米軍の黒人男性との間に生まれた子がアメリカから訪ねてきた途端、殺してしまう日本女性の話だ。岡田茉莉子演じるこの女性も「砂の器」同様、ファッションデザイナーとして成功を収めており、黒人と関係した過去を隠すため、実の息子を刺殺してしまう。

 原作が76年に書かれ、映画は77年に公開され、角川書店の大宣伝も手伝い大ヒットした。

 「砂の器」も「人間の証明」も犯人たちは、「ハンセン病」「黒人」に対する差別、世間の目の間接的な被害者であり、自分を守るために殺人を犯す。

 とんでもない話である。世間体のために、恩人や息子を殺してしまうのだ。

 映画の内容がおかしいのはまだしも、それが問題にならず、視聴者に涙さえ流させたのは、70年代の日本の露骨な差別状況を示してもいる。自分にとって貴重な相手までをもあっさりと殺してしまうほど、差別が苛烈だったと言えるが、私には主人公の気持ちがどうにもわからない。成功などなげうって、自分の恩人、あるいは息子となぜ生きようとしないのか。地位から引きずり降ろされたら、差別と闘えばいいではないか。

 というより、出世の邪魔だと殺人を犯す主人公らの方が差別者たちよりもたちの悪い、心の腐った化け物に思える。

 社会にはびこる差別に流される非常に弱い国民の姿がここにある。差別がそれほどひどいのだから、個人は押しつぶされ過ちを犯さざるを得ない、というような正当化が底にある気がする。

 両作品の少し前、74年3月に日本で公開された「パピヨン」というアメリカ・フランス合作映画がある。スティーブ・マックイーンのファンだった当時小学6年の私は、ひとり渋谷パンテオンまで見に行った。帰りに山手線に乗っていたら隣に座った外国人が私のパンフレットを見て「パピロン、パピロン」と言っていたのを、車窓の雨粒とともによく覚えているくらいだから、私はよほどこの作品にのめり込んだのだろう。

 脱獄を繰り返す主人公パピヨンが仲間と逃走中、ハンセン病患者が押し込まれている島にたどり着く。

 ひとり交渉に行ったパピヨンは島のボスと差し向いになる。年長者のボスは吸っていた葉巻をパピヨンに差し出す。しばらく相手を見つめたパピヨンは、思い切って葉巻をすぱすぱと吸い始める。するとボスは「感染しないと、知っていたのか?」と問い返し、パピヨンはかすかに首を横に振る。

 交渉は成立し、脱獄者たちはボートや食料などさまざまなものを与えられ、ボスたちに見送られ島を去る。

 これは作品の一場面であり、映画は特にハンセン病差別に力点を置いてはいない。それでも私はこの場面を実につぶさに後年までよく覚えていた。そして、その意味を繰り返し考えてきた。

 パピヨンは単に勇気があっただけではない。彼が他の人間たちと違っていたのは、見知らぬ相手の目を見て、相手を信じた、あるいは相手に自分の運命を預けることができた、というところだ。

 「ハンセン病」というその人に貼られたレッテルを見るのではなく、相手そのものを見て、自分をゆだねる。ただそれだけのことが簡単なようで何と難しいことか。パピヨンには運命を預けた相手に殺されたとしても、それならそれでいい。それも人生、といった思いがあったのだろう。

 常に差別されてきたボスの方は、パピヨンの目を見て瞬時にそこに気づいた。この男は差別する者ではないと。それでも彼は葉巻で試してしまった。恥じたのはボスの方だったろう。

 差別は一人一人の心が生み出す。70年代の日本映画の主人公たちとパピヨン。何という心根の違いだろう。

 

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自分の心はラジオの心

2019年7月号掲載

毎日新聞夕刊報道グループ記者(当時)/藤原章生

 

 最近読んだ本にこんなくだりがあった。

 <意識には見たものや聞いた言葉が自分の外側からやってくるということを見極める役割がある>。これはフランスの作家、ピエール・パシェという人が2007年に書いた「母の前で」というエッセーの翻訳である。パシェは1937年に生まれ、2016年に亡くなっている。この作品は認知症で息子のこともよくわからなくなった母親をつぶさに観察し、あれこれと考えを深めたものだが、最初の章「内なるラジオ」の一文に私は引き込まれた。

 作家は時々母親に電話を入れる。すると、母親は型通りの挨拶のあと「いま面白いラジオを聞いていたの」と話し出す。ところが、そこで語られるのは母親の学生時代や結婚間もないころのエピソードである。つまり、母親は自分の中にある記憶、思い出を、まるでラジオで誰かが話していると錯覚しているのだ。

 私が引用したのはそれについての作家の考察だ。最初の一文で言おうとしているのは、人は実際に見聞きしたものと、自分の中で考えたものをきちっと分類する。それが意識の一つの役割だと作家は言った上で、こう続ける。

 <意識はそうしたものを糧に前を向き、自分を餌食にしながら堂々巡りをすることを避ける>

 この人の言葉は難しいので、ここでは噛み砕きながら先に進みたい。

 意識は、自分の中でぐるぐると考えを巡らせるのを避けるため、「見聞きした事」を取り込みながら「前に進む」と言いたいようだ。

 そして、夢の話になる。

 <夢もそうだ。意識は、まるで外から押し付けられたような知識でもって、夢というものが心的活動のなかからくるもので、夢そのものがそうした活動の一部だということを知りながら、夢を、自らの注意力の中心点から離れたところで、やや周辺的な地帯でできるものとして受け止める>

 簡単に言えば、夢は自分の中から湧いてくるものだとわかっているのに、人はそれがまるで「夢魔」のように外からやってくるものとして受け止めるということ。

 

 段落はこう締めくくられる。

 <夢は、意識の外から意識に到達するもので、意識が、それが自ら創りだしたものであるということを認めるためには、ちょっと想像力を働かせることが必要だ>

 作家は、母親が自らの心の声をラジオが語っていると受け止めていたことをヒントに、夢をまるで外側からやってきたと思ってしまう人々の習性に思い至る。

 夢は自分自身が創りだしたものだ。意識できない領域も含めた自分の脳内の記憶やそのネットワークがあれこれと脚色して何らかの映像や物語を作り出す。それが夢だと私は思う。

 テーマは不安であったり悔恨であったり、大いなる喜びといろいろだが、全ては自分が創りだしたものだ。

 それは自分の手柄でもあり、同時に自分の責任でもある。でも、どうして太古から現在まで、人は夢が外から来るものだと思いたがるのだろう。

 私がこの引用に引かれたのは、そんな問いを自分の中に抱えてきたためだ。

 コロンビアの先住民、ワユ族をはじめ夢占いは世界各地にある。人が夢の不思議に魅せられ、何かのお告げだと考えるのは、彼らが単に前近代的だからということではない気がする。それは何か困ったことに直面したときに、人が生きていく上での一つの知恵でもあるだろうし、また単にその方が人生が面白いという面もあるのではないかと思う。

 これは夢の話だけではない。勇気、元気などについても言えるのではないだろうか。

 長らく私たちは勇気が湧いてくる、元気が出る、という言い方をしてきた。しかし、ここ10年ほど「元気をもらう」という表現をよく耳にするようになった。5月の連休中の天皇の交代をめぐるテレビ報道でも、マイクを向けられた人々の口から「ああ、ほんと、元気をもらいました」という声を何度も聞かされ、私は半ばうんざりした。

 この言い方は前から知ってはいた。イタリア生まれの日本文化史研究家、パオロ・マッツァリーノ氏によると、メディアで最初に使われたのは1986年の「フライデー」で、「三越の女帝」と騒がれた女性が、若い人から元気をもらうため、カフェバーに通っているという表現があった。89年ごろから使用例が増え、ファション誌に「パリが私に元気をくれる」といった企画が現れるようになる。

 ただし、一般の人がごくごく当たり前のように使うのはどうも2000年代以降のようだ。

 「大丈夫です」「ガチで」「真逆」「上から目線」など、自分では使わないが、耳にするのはまあ許せる程度の新語はいくらでもある。なのに、この「元気をもらいました」だけは、どうにも耳慣れず、いやな感じが残るのはなぜなのか。

 そんなことを考え、それを記事にしようと思っていたからなのか、先の引用に強く引き込まれた。

 夢は本来、自分の中から湧いてくる。なのにそれが外から来るものだと思ってしまう錯覚が人にはある。

 それにはいろいろな要因があるが、一つには、お告げがほしいと、いつも何かを待っている姿勢があるように私には思える。ある日、救いの神がどこか外からやってくるという期待だ。そういえば最近は「神ってる」など神という言葉もよく使われる。

 仮にそれが正しいとすれば、「元気をもらう」「勇気をもらう」の中にも同じような心の動きがあるのではないだろうか。

 お告げを待つ心。他力の心。

 自分ではどうにもならない。なんとかこの苦境から抜け出したい。そのためにはひたすら外からの声を待つしかない。そんな心理が「もらう」の中に隠れているのではないか。

 扉はいつ開くんだ!

 と、みんな待っている。そんな風に思ったのだが、どうだろう。

 

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親から子に何かが伝わる、どうしようもなさ

2019年5月号掲載

毎日新聞夕刊報道グループ記者(当時)/藤原章生

 

 前回、次男の留年について書いたが、結局、新しい道に進む勇気はないようで、再び3年生を続けることになった。

 そんな折でも、私は原稿書きを続けている。今やっているのは「残すべき東京の風景」「恋愛とデモクラシー」と、自分の趣味からきている面もあるが、抽象的、観念的なものが多く、切り口でどうにでも内容が変わってしまう話だ。

 日々何をしているかというと、まず企画会議でテーマが決まった時点でぼんやりとだがお話を考える。そして次は図書館に行き文献に当たる。例えば「東京の風景」については30冊には目を通し、その中から面白いことを言っている本を2、3冊探す。そして、著者たちの別の本を何冊か読み込んだ上で、インタビューを申し込み、締め切り当日に4時間ほどかけて一本の原稿にする。

 読んでいる時間がおそらく8割、インタビューやテープ起こしに1.5割、原稿書きに0.5割という配分になる。仕事のほとんどは読む時間だが、それは取材であると同時に、自分の思いつきと同じことを専門家が言っていないかを確かめる作業でもある。

 自分の原稿に新しさ、独自性がなければそれは作品と言えない。だから、多くの人間が取り組んでいながら、まだ誰も書いていないことを一行でも入れなければ意味がないと私は思っている。別の人がすでに言っている話を知らずに書いてしまうこともあるので、それを避けるためにあらゆるものを読み漁るわけだ。

 そんな作業中、仕事にはつながらないのに、つい読みふけってしまう本が時折ある。最近では作家、長山靖生さんの「若者はなぜ決められないのか」という新書だった。

 あるフリーターの若者のこんな話が出てくる。彼の父は大手企業の重役を務めるエリートサラリーマンで、多忙なころ「俺がこんなに苦労しているのにお前たちは」と妻や子供達に厳しく当たったという。それを見ていた息子は「自分が父と同じことをしたら、父よりも悪い父になってしまう」と思い、フリーターの道を選んだ。この若者は「今でも父のことは好きだ」と話している。

 父と息子の話だが、これが私には実感としてよくわかった。

 私の父は41歳で独立した。私が9歳のときだった。エンジニアだった父は炭鉱や身内が経営する中小の製線企業、針金に模様を入れる会社に勤めた後、自作の機械を武器に独立を果たした。東京の上板橋の家が手狭になり、足立区の古千谷という地に工場を建て移り住んだのが翌年だった。のちにそういう言い方を私もするようになるが、父はいわゆる「脱サラ」だった。

 ところが、その期間はわずか3年ほどで、彼は叔母に三つ指つかれて頼まれ、彼女が経営する製線企業に役員として呼び戻された。以後、それなりに働いてきたが、私の目から見ると、父がその人生で最も輝いていたのは41歳から44歳までの「脱サラ」の時期だった。

 父が「脱サラ」をやめたころ、うちに出入りしていた岡山出身のいとこがちょうど就職した。東大法学部を卒業し、そのころ初任給が一番高く人気のあった「東京海上」に入ることに決まった日のことだった。お祝いで鍋を囲んでいたとき、彼が父にこんなことを言った。

 「おじさん、やっぱり東大じゃないと。早稲田慶応じゃダメだよ。最初から部屋が違うんだ」。試験会場に集まった学生を大学ごとに分ける様子を得意げに語っていた。このいとこは何かと東大を鼻にかける恥ずかしい人間で、常日頃「東大が、東大が」と言っては失笑を買っていた。このときは早稲田出身の父に対する嫌味をまじえていたようで、父は「あ、そうかい」と笑って応じていたが、私は「こいつはバカじゃないか」と心の中で反発したのをよく覚えている。

 子供の頃から私が「サラリーマンには絶対になるまい」と思ってきたのは、父やいとこのことが影響したのかもしれない(結局、なってはしまったが)。

 と、私は長山さんの本の一節からそこまで考えを進めた。

 結局、このいとこは東京海上でスイス勤務などもしたが、東大を自慢するような情けない人格がたたったのか、大して出世もできず、関連会社で定年を迎え、間もなく70を数え、今は重い病で療養中だ。数年前、彼が父について「あんなにいい人はいなかったなあ」とポツリと言ったとき、私は少し溜飲を下げる思いがしたものだが、「サラリーマンではなかった父」に対し、私なりに思い入れがあったのだと、年をとるほどに感じるようになった。

 だとすれば、いま息子が留年をして、春はいつも元気がいいのに、秋口になると大学に行かなくなるということを繰り返しているのも、陰に陽に、父親である私が影響していないとも言えない。

 「自分が一番面白いと思うことをやれ」などと子供の頃から言ってはきたが、子供は子供で日々の私の仕事ぶり、喜怒哀楽を見ながら、きっと何かを学習しているのだろう。それが、就職など二の次で、今、このときをとりあえず楽しく過ごすことへと傾注させているのかもしれない。

 親から子へと何かが伝わっていく。こればかりはどうしようもないもの、という気がしてくる。

 

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『差別の教室』(2023年5月17日発売、税込1,100円、集英社新書)

 

元気をなくした息子

2019年4月号掲載

毎日新聞夕刊報道グループ記者(当時)/藤原章生

 

 この前、職場の地下の食堂街で同僚の女性と丼物を食べていると、「あっ、私、もう行かなきゃ。これから面接」と言って彼女は席を立った。「面接?なんの?」と聞くと「あ、インターンの」「インターンも面接すんの?」

 つい数年前、インターンの学生が何度か私を訪ねてきたことがあり、何人かと雑談をした。タダ働きさせられて意味がないんじゃないかと思っていたが、時代は進んで、今はインターンから直接採用することもあるようだ。そういえば、最近は電車でリクルートスーツを着ている学生をよく見かける。

 そう思っていたら、数日前の新聞に「3月1日解禁」と出ていたので、就職活動が始まっているようだ。40代の男の同僚に「今、就活やってるのって大学3年だよな」と聞くと、「そうですよ」と言うので、息子のことが頭に浮かんだ。

 東京の私大の文学部に通っている次男は今3年だ。この春から4年になるので本来なら就活をしている時期になる。なのにまだボサーっとした、「ゲゲゲの鬼太郎」ふうの髪のままで、バンドのライブ活動などをしている。

 「息子がいま3年だけど、髪切ってないから就活始めてないってことだな」

 「あ、そうでしょうね」

 そんなやりとりを終え仕事に戻ったが、同僚が思い出したように、こう言った。

 「就職が決まって、髪を切ってきたとき、もう若くないさと、君に言い訳したねって歌がありましたよね」

 「ああ、ばんばんのやつね。荒井由実が作った」

 「あれ、変ですよね。就職が決まって髪切るっての。普通、面接のときに切るんじゃないっすかねえ」

 「荒井由実、就活とかしなかったから、知らないんじゃないの。だいたい、就職が決まって、もう若くないって、要するに彼女と別れる言い訳って感じだなあ」

 と、また互いに沈黙に戻っていった。

 家に帰ると、息子がこたつで米国のテレビシリーズを見ていたので、終わったところで、歌の話をしてみた。すると、意外にも40年も前の歌を知っていて、こんな反論を加えてきた。

 「それって昔の就職の話だから、おかしくはないんだよ。昔は企業で働いてるOBが大学に来て、学生に就職しないかって声をかけてたから、そのときに学生が応じれば、その場で就職が決まったんだよ。今とは全然違うんだ」

 なるほど。確かにリクルートスーツなどと呼ばれて学生たちがお揃いの格好で練り歩くようになったのは80年代、いやそれが目につくようになったのは90年代以降のことだ。

 長髪の学生を企業側がわざわざリクルートに来ていたという息子の解釈に、へえと思ったが、本題はそこではない。

 「で、就活してないの」

 「あ、うん、まだ」

 「就職するんなら、早く始めた方がいいんじゃないか」

 「うん」

 話はそこで尽きたのだが、機を見計らったように翌日、大学から私と息子宛に封筒が届いた。留年通知だった。単位表を見ると、3年の後期はほとんど大学に行っていないようだった。

 本人にどうするのか問い詰めると、大学を辞めてバイトをしながら、ITパスポートという資格をとってシステムエンジニアになるという。だが、その資格を取っても高卒で専門職につくのは容易でないのは明らかだ。思いつきで、甘いことを言っているのだろう。

 要は大学のゼミや授業がつまらなく、そのうちに行かなくなり留年となったようだ。ただの怠惰である。

 どうしたものかと私は思った。このままいったら引きこもりになるような危惧もあり、私はそれを一番怖れている。

 この子供はもともと線が細く、自分でグイグイ道を開くタイプではない。なのに妙に頑固で、親の導きや援助をはなから嫌がる。

 私はせっかくの機会だからと、少し恐縮している息子に向かってこんなことを言った。

 自分は今になって、人生は結構短いと痛感している。86歳の母親を見てもそう思う。意外に短く、20年、30年などあっというまに過ぎてしまうものだ。

 どうせ短い人生なら、自分の好きなことを仕事にできるに越したことはない。死ぬときに、実はあれをやりたかったんだと後悔するくらいなら、結果がうまくいかなくても、やりたいことを目指した方がいい。学校での失敗は気にせず、この先の人生をよく考え、大学を続けるかどうかを決めたらいい。

 そんな言葉がいいアドバイスになるのか、私にはわからない。自分も留年を重ね似たような状況にあった22歳のころ、エンジニアの父親に電験三種という資格を取ったらいいと勧められ少し勉強したこともあったが、すぐに放り出した。

 親に言われても、なかなか通じない。いや、親に言われるから通じないのだ。どんな仕事でも、とりあえず働いてみるのはいい勉強になると、私は思っているが、それは自分が経験をしたから言えることであり、若い頃、同じ言葉を聞いても何も感じなかっただろう。

 要は自分で困るしかない。困って困って考え、自分でわかるしかないのだ。

 そうわかっているから、あまりしつこく言っても仕方がないとは思うのだが、子供が塞ぎ込んでいるのは親にとっては、やはり辛いものだ。

 

●近著

『差別の教室』(2023年5月17日発売、税込1,100円、集英社新書)