自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

日本人の根に先祖信仰はあるのか

2019年3月号掲載

毎日新聞夕刊報道グループ記者(当時)/藤原章生

 

 先日、映画を見ていてわっと涙が出てきた。子供のころから映画やドラマ、音楽などでよく泣くほうだが、年を取っても変わらない。むしろ増えた気がする。

  何の変哲もない場面だった。「盆唄」というタイトルの日本のドキュメンタリー映画のDVDを自宅で見ていた。主人公は福島県双葉町の50代後半とみられる男性で、原発事故のせいで祭ができず、消えてしまいそうな盆唄を残すため、ハワイの日系社会に伝える話だ。明治初期の移民開始からこの方、ハワイには日本移民が持ち込んだ盆踊りが残っており、福島の男性は自分たちの踊りを「疎開」させたいと考えたわけだ。

 きれいな美談なので白けた気分で見始めたが、本筋とは関係のない細部にひかれた。

 夏の日、主人公の一家が花と桶を手に、帰還困難区域に指定され、今は誰も住めなくなった故郷の墓参りに行く。

 カメラは一行を淡々と撮っており、主人公の男性が「東京電力の方がここまではやってくれたんです」と指差す方に、横倒しになった墓石が整然と並んでいる。

その脇を通り、きちっと立った自分たちの墓の前で、線香などの準備を整え一家が祈り始める。そのとき、映画にはその場面にしか登場しない年配の女性、おそらく主人公の母親が画面の奥におり、手を合わせた途端、嗚咽が込み上げ、カメラを避けるように奥の方へと歩いて行ってしまう。

 その短い場面に涙が出た。

 その女性はなぜ墓前で泣いたのか。夫の姿はないので、もしかしたら震災のときに亡くなったのか。あるいは、亡父や義理の親たちが眠る墓を前に、震災後の自分たちの苦難が蘇ったのか。映画ではこの女性についての説明はない。

 私がなぜ感動したのか、自分でもわからなかった。頭で説明すると、自分は郡山に駐在していた時、多くの被災者に会い、ゴーストタウンとなった浜通りに何度か同行したことがあったため、そのときのことを思い出したのかと思ったが、そうではないような気がした。

 もう一つ、ハワイの場面に泣ける瞬間があった。

 主人公たちがマウイ島を訪ねた際、母親が福島県の出身だったという90代の日系2世の女性を紹介される。

 彼女の母が福島県のどこの出身なのか正確な場所を彼女は知らない。おそらく大正か昭和初期にハワイに渡った母親は、サトウキビ畑で働きながら、故郷福島の親戚と連絡を取り合うことはほとんどなかったのだろう。この映画を監督した中江裕司さんは「沖縄からの移民たちは、戦前も戦後も互いに助け合い行き来していますが、福島からハワイに渡った人は棄民のような立場の人も多かったように思います」と私に話した。

 映画は、その90代の女性が福島から来た一行と母親の墓参りをする場面を映し出す。その時、女性は墓前でこう告げる。「お母さん、喜んでください。福島県からみんな来られたよ」。そこまで言うと声を詰まらせた女性は、せきを切ったように涙を流す。

 私はこの場面に強くひかれた。

 90代の女性が発する「お母さん」という優しい声に、戦争をくぐり抜けてきた母娘の苦難を感じたせいなのか。それはあるかもしれないが、それだけではない。あの場面がもっと自分の根に触れ、心を動かされたような気がする。

 先に挙げた場面と共通するのは、いずれも墓参りのシーンということだ。

 私は墓を信じていない。墓に行ったからと言って、そこに亡父がいるとは思えない。位牌や仏壇も同じだ。父が亡くなったとき、位牌の値段を説明する寺の住職があまりに俗物に思え、以来、ごくたまに母につきそう以外、墓を訪ねることはまずない。そこには父方の祖父母も入っているが、彼らの何かがそこにあるとはとても思えない。

 だから、墓参りということだけで、自分の涙腺にスイッチが入るということはないだろう。

 では、なぜ、あの二つの場面にひかれたのか。自分のように墓を信仰していない人間がなぜ涙を流せたのか。

 そんなことを私と同世代の監督に聞いてみるとこんな答えが返ってきた。 

 「僕は日本人の根底にこんな感覚があると感じているんです。自分は一人で勝手に生きているのではなく、ご先祖様が生きて子孫がいて、その中のわずかな一地点にいるだけなんだ。だからちゃんと生きるべきなんだと。親から言われたわけではないけど、お盆にはお墓参りに行き、正月には身内が集まり、先祖とのつながりを何となく感じているんだと思うんです」

 私が二つの場面にひかれたのは、先祖に向かって祈る人々のごくごく個人的な姿だったのかもしれない。頭ではそんなものはいないと考えていても、もっと根の部分で、自分にも先祖信仰があるのではないか、過去から未来へとつながる長い長い線上の一点を担っているに過ぎない「小さな自分」にはっと気づかされたのではないか。それを暗に見せられ、自覚させられることで涙が出るのではないか。そんな気がした。

 

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近代化されていない日本人 

2019年2月号掲載

毎日新聞夕刊報道グループ記者(当時)/藤原章生

 

 若槻泰雄さんが亡くなった。海外への移民や引き揚げ者の問題をめぐって政府を厳しく批判し、日本人とは何かを問うてきた大人(たいじん)だ。国家賠償訴訟にも積極的に関わってきたため、政府にすり寄る御用学者とは全く逆で、長く執筆を歓迎される立場にはなかった。この人の著作が忘れられ、消えていくのが私は残念でならない。

 最初にお目にかかったのは2001年の8月だった。若槻さんは「外務省に消された日本人」という本を毎日新聞社から出版したばかりで、私はご自宅で初めてインタビューした。記事は短いものだったが、当時77歳の若槻さんの甲高い熱っぽい声がいつまでも耳に残った。

 「私がボリビアに駐在していたとき、日本から出張してきた外交官を案内し、移民と同じ船に乗せたんです。すると、外交官は激高して、こう怒鳴ったんです。『いやしくもこのキャリアに、移民と接触する下賤(げせん)な仕事をさせるとは、何事か』」

 若槻さんは医師だった父の仕事の関係で、1924年に中国・青島(チンタオ)に生まれた。大陸育ちのため、植民地で威張り散らす役人、軍人を見て育ち、これが役人嫌いの原点となった。12歳で帰国し、大学に入る直前、20歳の時に召集され、陸軍二等兵として中国戦線で死に目に遭い、新兵いじめで毎日のように意味もなく殴られた。「敗戦を知ったときは、これで日本の理性なき文化が終わると思い、心から感謝した」が、民族性はそう簡単に変わるものではない。

 戦後、東大を出た後、農林中金を経て移民を送り出す外務省の外郭団体に入り、ボリビア事務所長に志願した。米大陸で見た外交官たちは不勉強な上、横柄で「日系2世が翻訳した現地の新聞を日本にたれ流し、後はゴルフ、マージャンざんまい。日本人としか付き合おうとしない人たちだった」。

 無能さの裏返しなのか、官僚は現地に移住した日本人を見捨てられた民と見下した。その差別を若槻さんは「民主主義の未成熟からくる官僚の特権意識が、一般国民の目の行き届かない海外で極端に表れたもの」とみていた。

 私が若槻さんにひかれたのは、強い語調ながら、決して威張らず、ときにユーモアを交えたその人柄が大きかった。役人に対する怒りを原動力に、書かざるを得ないという彼の使命感も私にはまぶしく見えた。それにもまして大きかったのは、5年半の南アフリカ駐在を終えたばかりの私自身が外交官について彼と同じ印象を抱いていた点だ。

 詳述に値しないし、例外は常にあるものの、私がアフリカ各国で目にした外交官や、「骨休み」に大使館に派遣されてくる各省庁の官僚たちは本当にダメな人が多かった。民間企業の人や非政府組織、商売人に比べ、現状把握能力、人脈、親和力などあらゆる点で劣っていた。

 若槻さんとは2006年6月に東京地裁で「時効」を理由に却下されたドミニカ移民訴訟をめぐり、何度かお目にかかった。カリブ海ドミニカ共和国のひどい土地に移住させられた移民たち原告団を長く支援していた。

 外務省がまともに情報もないまま移住希望者を放り出しただけなら、単にダメな官僚たちだったというだけの話だ。だが、問題は、自分たちの非を隠し謝罪せず、ドミニカ政府が一方的に悪い形に粉飾し、裏で政府を動かし新たな土地を移民に与える――というやり方だ。

 日本大使は原告団の移民にこう言ったそうだ。「今度の土地は何でもよく育つ所ですよ」

 「大使はいつご覧になったんですか」と聞くと、「2、3日前なんですが、JICA(国際協力機構)の専門家がそう言っておりますので」と答えた。

 移民の男性はその時の怒りを忘れられないと私に言った。「この人たちは、いまだにわれわれの気持ちが分かっていない。非があると思うのなら、なぜ私たちに謝らないのか。なぜドミニカ政府を使い、ドミニカに不手際があったような芝居をするのか」

 一言で言えば、卑怯なのだが、それ以前に人間性の欠如を感じざるを得ない。共感という言葉がはやりだが、目の前で、苦しんでいる人がどんな気持ちでいるのかを察する力がないから、「今度の土地は何でもよく育つ」などと平然と言えるのだろう。その大使の言葉からは、その国を知り尽くしている移民から何かを学ぼうという姿勢が全く感じられない。

 晩年、病床にいた若槻さんとは会えずじまいだったが、昨年、満州からの引き揚げ者について調べる中で、彼の著者を熟読する機会があった。大著「戦後引揚げの記録」の末尾に彼が書いた渾身の言葉が、今の日本の日常から政府の態度まで全てに通じるように思えた。

 <(戦時中)日ソ両国が国際法をじゅうりんしたのは、両国民が近代国家でないところからきているに違いない。この二つの国の共通点は、ルネッサンスも、宗教改革も、啓蒙時代も経ておらず、外見だけは、急速に近代産業国家、一大軍事国家になったのだが、近代のヒューマニズムが身についていないということだ>。

 <昭和の日本は明らかに明治以前に逆戻りした。近代化80年の付け焼き刃がはがれた>時期で、<日本が世界で特異の国といわれるのも、その内容をよく考究すれば、大部分は前近代的なものの残滓であるように思われる。そして真の近代化は50年や100年では完成しない遠い道のりなのであろう>

 この先も、若槻さんの偉業を広め続けたいと痛切に思う。

 

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心の底からわいてくる

2019年1月号掲載

毎日新聞夕刊報道グループ記者(当時)/藤原章生

 

 夢の中では時間が歪む。この前、朝方目覚めて変な気分になった。見知らぬ老若男女4、5人と飛行船のようなものに乗ってどこかに戻っている。空港のような所に降り立ち、2日後にまたそこで会おうと言って別れ、みな迎えの車などに乗ってそれぞれどこかに帰っていく。

 私は数年前まで暮らしていた練馬区の南大泉か、高校卒業まで暮らした足立区の、今は大きな舎人公園の下になっている「古千谷」と呼ばれる町に戻ろうとしている。いずれも畑のある街並みだが、夢なのでどこなのかははっきりしない。私は外国から戻ったようでもあるが、それもよくわからない。

 帰る途中、ショッピングモールのような大きな商業施設に立ち寄り、そこから家に電話をしてみる。万一誰もいないこともあるかもしれないと思ったのだ。自分が今使っている携帯電話から電話をすると、最初「ツーツー」という通じていない音がした後で、通常の呼び出し音になった。誰も出ないと思っていたら「もしもし」と気の良い感じの年配の男性が出てきた。「父だ」と思った私は懐かしくなり、勇んでこう言った。

 「あ、お父さん、俺だよ。今、帰ってる途中だよ、すぐそばまで来てるよ」

 すると男性は、「あ、間違いですね」と応じる。

 「あれ、違いますか、変だなあ」。番号が変わったのかと思い、私は「3899の」と番号を告げると、向こうは「あ、それは古い番号だね、今は1566の1566ですよ。それは千葉がなくなる前の番号だ」と答える。

 「千葉がなくなった?」

 「あれ? 知らないの、へえ・・・」

 相手はずいぶん驚いている。

 「いやあ、もう15年も戻ってないので・・・」

 「15年、そりゃ大変だ。千葉がなくなったんで、みんな東京、埼玉の方までずれてきたから」

 千葉がなくなったって、大地震でもあったのか。なぜ、それを私は知らないのか。ニュースで知ってても良さそうなのに。ここはどこだ。15年前?

 いや15年ぶりに戻っていたということは、現在か。だったらさっき乗ってきたあの飛行船はなんだ。どこから来たんだ。15年前から来たのか。いや・・・、どこか別の次元から来たのか。

 途方に暮れていると目が覚めた。

 夢なので、場面設定や行動は支離滅裂だが、時間も歪んでいるようだった。けれど、どうして15年なのか。

 15年前、私はメキシコに住んでいて、イラク戦争を報じるためよく現地に行っていた。その翌年、父親がガンで死んでいる。朝方、夢を振り返っていると、晩年はほとんど会えなかった父が懐かしくなり、少し寂しい気持ちになった。

 <夜の心のくらやみから夢はわいてくる>。谷川俊太郎は「お早うの朝」という詩でこう書いた。「心のくらやみ」というと大げさだが、夢はその人の心理状態を映している場合が多いと私も思う。

 前日にみた夢も少し先の夢とテーマが似ていた。

 アーケードのある商店街で知人を待っているうち、どうせならと、アーケードの入り口まで歩いていく。すると、そこは地下鉄の駅になっていて、クリーム色の電車がやってくる。降りてくる客を見ても知人はおらず、おかしいなと思っているうちに私はその電車に吸い込まれるように乗ってしまう。「まだ時間があるので一駅乗って戻ればちょうどいいや」と思っていると次の駅に着いた。終点のようで、みなぞろぞろと降りていく。彼らについて線路をまたぎ反対側に行くが、単線のようで、帰りの電車がどうも来そうにない。

 近くにいたタクシー運転手に「今着いたんだけど、戻りの電車は?」と尋ねると、なぜかスペイン語で「え? 戻りはないよ。ここで終わりだよ」と言う。

 そんな馬鹿なことがあるのか、と思っていると、すでに先ほどの客たちはどこかへ行ってしまい、広々とした駅の待合室に人影はない。またタクシーに戻ると西欧人風の乗客が二人すでに乗っていて、そのうちの小柄で若い方が日本語で、私に同情する口ぶりでこう言う。「ここに来たら、もう戻れないんですよ」

 先の夢もこの夢も、描かれているのは不可逆だ。もう戻れない、失った者は、時間は決して戻らない。それを知らされている主人公の焦りだ。主人公といっても私のことだが。

 そんなのは当たり前ではないか。死んだ者はそれで終わりだ。墓参りしたからって魂が戻ってくるわけでもあるまい。過ぎたこと、やってしまったことは覆らない。だから悔いても仕方がない。振り返って何になる。

 どちらかと言えば、私はそんな風な思いで生きてきた。

 だが、それは人間の意志でしかない。そうしたいと思っている信念にすぎない。本当のところ、脳はどうなっているのか、何を意図しているのか、そこは自分でもわからないのが人間である。

 夢の中では時間も空間も歪み、平気で伸びたり縮んだりする。決して戻らない者が平然とそこにいる。

 白黒の浜辺で、走って走って、手を伸ばして必死になって追いかけていく。いくら追いかけても取り戻せない何かを、あるいは取り戻しても手からするするするとこぼれ落ちてしまう何かを人は追い続ける。

 人は理だけでは生きられない。

 そんなどうしようもなさ、不条理な思いが心の底から立ち現れ、あのような夢になったのだろうか。

 

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人間の悪意が席巻する時代

2018年12月号掲載

毎日新聞夕刊報道グループ記者(当時)/藤原章生

 

 今からほぼ30年前、1989年5月に天安門事件が起きた。私も含め多くの人々の記憶に残るのは戦車の前に立つ中国人の姿だろう。戦車を阻もうと一人の男が立ち、戦車がその男を避けて前に進もうとすると男はそっちに移動し、再び阻もうとする。

 当時は平成元年。私は新聞記者になり長野市に赴任したばかりだったが、支局長ら仲間達と映像を見たときのことをよく覚えている。「中国が壊れるぞ」「この男はすごいなあ」といったことを50歳になったばかりの支局長が感慨を込めて語っていた。中国は壊れはしなかったが緩やかに変わり始めた。

 その年の秋、ベルリンの壁が崩壊し、東欧で数々の革命が起き、のちの東西冷戦の終結へとつながる。

 人種隔離政策、アパルトヘイトが続いた南アフリカで、ネルソン・マンデラが27年の獄中生活を終え、釈放されたのが翌90年の2月だった。そしてアパルトヘイトにまつわる法律が廃止されたのが翌91年6月のことだ。

 89年から91年という時期は、世界の世論が、長年抑えられてきた中国の、そしてソ連(現ロシア)の支配下にあった東欧の個人の自由を求め、さらには差別されてきた黒人の解放を祝った大きな転換期だった。第二次大戦後の負の、あるいは悪の象徴が一気に崩れた時代。

 私は長野で日々起きる事件や事故を報じるのに夢中で、世界を広く見渡す機会はほとんどなかった。それでも、世の中が何か大きく動いていると肌で感じていた。

 ただし、冷戦が崩壊して万々歳、明るい未来がやってくると単純には思えなかった。たとえて言えば、70年代の空は見事に明るかったが、89年から91年ごろは薄曇り。それがこれから晴れ渡るのか、次第に雨模様になるのかはわからない。期待と裏腹に大きな不安が心の底にあるような、そんなムードだった。

 つまり、人間は例えば「冷戦」という一つの重し、それが負のものであっても、何かに縛られている状態の方が、より空が明るく見えるのではないか。そんな直感を当時、私は抱いていた。これを証明するのは難しく、青空も実は錯覚に過ぎないのかもしれないが、縛られることによる安定というものはあるだろう。

 ぽんと自由な世界に放り出されるより、囚われの身である方が安定しているという錯覚の中に人間は生きている、と感じていた。

 それから30年がたち世界はどうなったか。

 象徴的なのはトランプ現象だ。弱き者に対する平然とした差別発言。「自分さえよければ、自分たちの国さえよければ」というエゴイズム的な言動と政策。トランプの真似をして人気をはくしたブラジルの泡沫候補、ボルソナロ氏がこの10月の選挙で次の大統領に選ばれた。多民族、多文化の共生を国是としてきたブラジルで、先住民や黒人差別を声高に叫ぶ人物がトップにつくなど、30年前に誰が想像しただろうか。

 例えば、マンデラ解放のとき、「有色人種は閉じ込めておけばいい」「黒人に政治ができるわけがない」などといった声が仮にごく一部であったとしても、それが世界の世論の一端に現れることは決してなかった。「東欧の連中など、その地に閉じ込めておけ」「西欧に来ることは許さない」という発言も耳にしなかった。「差別は悪」「個人の自由は謳歌すべきもの」という世論が世界で当たり前のようにあったからだ。

 そこで浮かぶ言葉が「悪意の噴出」だ。

 過去30年、インターネット環境が急激に広がった。89年ごろ、パソコンはまだごく一部の人のものだった。それを多くの人々が当たり前のように使い出したのが今から20年ほど前、世紀が変わるころだ。そしてネットを携帯電話やスマートフォンで使うのが日常となるのが2010年ごろのこと。

 ネットが「悪意の噴出」をもたらしたようだが、そうではない。そもそも人間の中にあった悪意が環境が整ったことで表に出てきたに過ぎないと考える方が正しい気がする。

 マンデラ解放の時代にも悪意はあった。いやそれ以前から人間の中には常に悪意はある。だが、歴史の中で闇に、影に隠され、主流になるのは稀であった。

 それは一人一人の人間でも同じことだ。ごく一部の人を除けば、誰もが自分の中に善意と、ごく小さなものであれ悪意を抱えている。善と悪は日々戦い、天秤にかけられ、人は社会生活を営んでいる。悪意は善の本質を知り、判断するための役割を担ってきた。善ばかりの人が宗教や犯罪に巻き込まれるのはよくあることだ。人々はうまく悪意を飼いならしてきた。

 メディアが正論を流し、真面目な若者たちが教養を身につけようと岩波新書などを後生大事に読んでいた89年ごろ、それぞれの悪意が噴出する機会はさほどなかった。

 「メキシコ人は強姦魔だ」「イスラム教徒は入国させない」といったトランプ発言は89年当時では考えられなかった。それが今、全体の2、3割の人々を魅了するのは、その言葉で人の中の悪意が噴出するからだ。隠しておかねばならなかった自分の中の悪意が、大手を振って外に飛び出し始めたのが今という時代、という気がする。

 日本の政治家の「生産性」発言や、相模原の施設での大量殺人を犯した男による差別的発言、最近ではシリアで解放されたジャーナリスト、安田純平氏に対する激しいバッシングなど・・・。同列には語れないが、悪意がふとしたきっかけで表に顔を出す環境が整った結果とも思える。そういう時代になってしまったのだ。

 それに対抗する例えばオバマ氏の正論はひどく懐古的に響き、悪意を完全に潰すインパクトはない。では、どうなっていくのか。

 過去10年、20年でネット環境は急激に発達した。その環境はこの先、これまで以上の速さで変わっていくだろう。

 その際、人間の悪意は出るところまで出尽くすのか。どこかに歯止めがかかるのか。悪意を主役にみた場合、まだまだ始まったばかりという気が私はしている。

 

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高みから見下ろす自分

2018年11月号掲載

毎日新聞夕刊報道グループ記者(当時)/藤原章生

 

 記憶の中でも特によく覚えている光景がある。何度も思い出すたびに残像はより強くなり、元の型は多少変わるだろうが、忘れがたい記憶となっていく。

 そんな中の一つにこんなものがある。

 中米のグアテマラシティーの路上を歩いている自分の後ろ姿だ。幅3mほどの石畳の道の両脇で赤っぽい民族衣装を着た先住民の女性たちが花や陶器、腕輪などの工芸品を売っている。道はひどく混んでいて、その中を、青い薄手のジャンパーを着た自分がやや肩をいからせて歩いている。

 ただ、それだけのなんの変哲もない記憶だ。25歳の夏のことで、安宿で寝入り端、その日の自分の行程をなんとなく振り返っているときに出てきた映像だった。

 そこにあるものに特別なものは何もないが、おかしいのは、後方から自分の背中や横顔を見ていることだ。距離も高さも2、3mほどから自分を見下ろしている。

 最近のシミュレーションゲームと同じで、少し高みから、まるでドローン撮影のように、自分の姿とこれから向かう先を見ているという構図だ。

 それを見ているのはどう考えても自分であり、前を歩いているのもやはり自分だ。哲学や脳科学の文献を読むと「メタ化」と呼ばれるらしい。自分の振る舞いや考えていることを認識することが意識だとすれば、それは通常、自分の中に留まっている。しかし、このグアテマラでの記憶の場合、自分の体から離れ自分を見ているわけだから、それも意識だとすれば、一段上の意識という感じがする。

 そのとき自分を見ている自分はこんな風に考えていた。その歩いている自分を自分だとわかっていながら、その行動に影響は与えられない。何かを指導したり助言したりすることもできない。その立場をわきまえていて、ただ傍観している。うん、頑張ってるなあ、一人でちゃんとやっているなあといった感慨、親近感を込めて後を追っているという構えなのだ。妙に達観した自分。

 こうした視線は夢の中ではよくあるが、覚醒時には滅多にない。現在進行形ではまずなく、いつも直後の記憶として残る。そんな話を周囲にしてみると、夢の中でも見たことはないなあ、という人が多数を占める。きちっと調査をしていないが、結構稀な現象であることは確かだ。

 グアテマラシティーの記憶より10年以上前、やはり同じような形で記憶の映像が残ったことがある。

 中学一年の冬、山梨県乾徳山に行ったときのことだ。大きな岩がゴロゴロと鎮座している、だだっ広い広場のような地形があり、岩を除いた一面が雪で覆われていた。快晴の朝で、それまで見たこともない濃い青空が広がっていた。グアテマラのときほどはっきりとはしていないが、そのときも短時間だが少し上から自分を見下ろしている映像が残った。

 離人症なのだろうか。

 ウィキペディアによれば、離人症は<自分が心や体から離れたり、また自身の観察者になったように感じる症状で、その被験者は自分が変化し、世界があいまいになり、現実感を喪失し、その意味合いを失ったと感じる>状態を指す。

 <一時的な不安やストレスなどによって誰にでも起こり得るものである。慢性的な離人症は、重度の精神的外傷、長期持続したストレス・不安などに関係している>。

 ただし、私の場合、そのときの自分も、またそれを傍観している自分も、不安やストレスなど否定的なものを抱えてはいなかった。むしろかなり肯定的に明るい気持ちの中にいた。ただ、後ろの方の自分はそれを「人生の一コマ」のような、すでに未来を見通したような気分で光景全体を眺めていて、後々この場面が深い記憶として残ることもわかっている。

 最近になるまで、この記憶の意味について考えることはなかった。

 だが、この夏、冒険家の角幡唯介さんからドイツの哲学者マルティン・ハイデガー(1889〜1976)の話を聞き、『存在と時間』という本を読むうちに、そんなことを考えるようになった。人が死をどう受け止めるかについての論考があったからだ。

 簡単に翻訳すれば、人間は生まれた瞬間からすでに死に向かっており、死を意識している。だが、それを真正面から受け入れることはあまりない。ところが、「自分」がいずれ死ぬものだとはっきりと悟ったときはじめて、「真の自分」に到達する。それを踏まえ「真の自分」は日常の中で再び「自分」に立ち返り、その「自分」を引き受け直すという作業をする。それが「死を先取り」することなのだ ——。

 ハイデガーの造語が難解なので間違っているかもしれないが、少なくとも、私はそう読んだ。

 「真の自分」と「自分」の二つがあるという前提は、私の記憶と重なる。目の前を歩いているのは「自分」でそれを後ろから見ているのが「真の自分」と考えればしっくりくる。

 でも、常にその状態にあるわけではない。ごくごく稀にそういうことが「あった」ということで、これから先にまた起きるとは言えない。

 ではなぜ、そのとき、そんな風になったのか。それは偶然かもしれないが、中学1年の冬の場合、その半年前、海で溺れて死にかけ、脳内がパニック状態になる経験を私はしていた。そしてグアテマラの場合、前の年にヒマラヤで高度障害に陥り死にかけている。

 死にかけたことは、今から思えばかなりの精神的外傷だったはずだが、当時の「自分」は深く考えず「過ぎたこと、恥ずかしいこと」とみなし、記憶を封印していた。

 もし、高みから自分を見下ろす映像が離人症だったとすれば、その瀕死体験での精神的外傷が引き起こしたとも言えそうだ。

 私の場合、うまい具合にその症状は続かず、ハイデガーの言うように、一度死を引き受けた上で「自分」に立ち返ることができた、ということなのかもしれない。

 だが、どうなのか。

 死は怖い。けれども、前ほど怖くはない。その後も、それに近い体験はしたが、割と余裕を持って身構えていた。でも、もっと死に近づいたら再びパニックに陥るはずだ。それを経たとき、再び高みから「自分」を見下ろす「真の自分」が現れてくるのだろうか、最後の最後に。

 

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オウム処刑の沈鬱

2018年10月号掲載

毎日新聞夕刊報道グループ記者(当時)/藤原章生

 

 この7月、オウム真理教の幹部ら13人の死刑が執行された。最初の7人が首を絞められた朝、ラジオでまず教祖の処刑を知った。嫌な気分になった。

 その日は金曜日で、ドイツの哲学者のインタビュー原稿が夕刊に載る日だった。ニュースを横目に起き上がると、すぐに会社に向かった。教祖の顔を思い浮かべながら、オフィスに着くと、処刑された者の数は増えており、夕刊の締め切りが過ぎた午後1時半には7人に達していた。

 その間、同期入社の上司と二言三言会話をかわしたが、深い話はしなかった。私は沈鬱していた。

 死刑制度に対する反発。遺族が極刑を求めるのはわかるが、それを当然と受け止める、ここ20年ほどで強まった風潮への嫌悪感は前からあった。一連のオウム事件を取材してきたジャーナリストらによる「未解明のまま終わってしまう」という嘆きもわからないではない。死人に口なし、「済んだこと済んだこと」と、新しい元号を前に忘却の闇に押し流そうという政府の、社会の、日本という国らしいムードに違和感を抱いたのも確かだ。

 だが、私の沈鬱はそれとは別のところから来ていた。あえて言葉にすればこうだ。

 あったかも知れない「もう一人の自分」を抹殺された、あるいは自分たちの青年時代を消された嫌な感じ。

 誘われたとしても、私はオウムには入らなかっただろう。だが、1980年に大学に入った私には、若者たちの動機がぼんやりとわかる。教室で机を並べていた一人が、もしくは、サークルの仲間が「俺、ヨガ始めたんだ」と、すっとあのグループに入ってしまってもなんら違和感はなかった。

 実際、私が親しくしていた2歳上の先輩はオウムの初期、80年代の半ばに入信している。彼は大学での勉強や、まだ巷に行き渡っていなかったころのコンピューター技術など、あらゆる面でものすごく優秀な人だった。大学院を出ると20代半ばですでに工学部の助手となっていた。

 その彼がある日、出奔した。オウムがまだ犯罪に手を染めていなかった無害のころだ。私の仲間には学生時代に統一教会に入った者が3人おり、また、4歳上の先輩は「幸福の科学」に入った。統一教会の一人を必死になって止めたことはあったが、オウムの彼は、気づいたら姿をくらましていた。

 10年後に事件が起きたとき、彼は科学班にいて、週刊誌に顔写真が載ったこともあったが、実行犯にされるまでの幹部ではなく、検挙を免れた。

 私の一回り上、団塊の世代の作家、関川夏央さんがこう話していた。

 「それぞれは心のきれいな、いい奴ですよ。僕らは大人だったから、滑稽な集団としか見えなかったけどね。あれが自分を預けるにたる集団と考えるところに深い落差がある。虚ろだけど豊かな時代を無にしちゃったなあっていう感慨があった」

 自我がしっかりしていれば、あのような誇大妄想の奇人に自分の全てを預けてしまうことはなかったはずだ、という不可解さが関川さんにはあった。つまり、80年代にカルト的な組織に入っていった60年代生まれと、48年前後に生まれた団塊の世代の間にははっきりとした断絶があったと。

 結果の甚大さは別にして、団塊には学生運動の象徴、連合赤軍がおり、下の世代には宗教活動の象徴としてオウムがあった。そこに入り込む動機に大きな差はなかったのではないかと私は思う。

 差があるとすれば、経済力や就職の機会など育った社会環境の違いだろう。70年と80年の違いは、中身というより程度の差だ。70年の空気の性質をより強めたのが80年だった。一言で言えば「豊かさ」「明るさ」、そして、それと裏合わせのようにある「管理」だ。

 お前はこう生きろ、こうせよと具体的に誰かが管理したわけではない。世間のなんとなくの空気だ。「まあ、大企業に入れば安定した人生を送れる」といったムードだ。そこに批評的な目を持ち得なかった者は、例えば「気まぐれコンセプト」的な大手広告代理店を目指し、あるいは商社、メーカーに身を没した。「一方の連中は踊って生きていくみたいな人生を選んだわけですよ」(関川さん)。

 だが当然ながら、20人に1人くらいの割合で「進取の気性」を持った若者がいた。「世の中、このままでいいわけがない」「何かおかしくないか。このまま黙って就職していいのか」「社会自体を変えなくちゃダメなんじゃないか」と、妙なほどナイーブで純粋な動機からカルトに入った者が相次いだのが80年代だった。30代の作家が「孤独が彼らを走らせた」と知った風なコメントをしていたが、明らかな間違いだ。

 何事も疑う癖のあった私は、カルトに誘われなかった。関川さんが言う「真面目で心の硬い若者」になる才能がなかった。ただし、「世の中おかしくないか」「社会をなんとかしなくては」という彼らの動機に近い感覚を私自身も確かに抱いていた。そして、その解答方法をいまだに見出せないでいる。

 13人が抹殺されたのは、単に彼らの生命が奪われただけでなく、80年代の若者に巣食った「社会への違和感」までもが一瞬にして無きものとされてしまった気分になったせいだろう。沈鬱はそこからきていた。

 

●近著

『差別の教室』(2023年5月17日発売、税込1,100円、集英社新書)

 

丘陵の町の尚子さん

2018年9月号掲載

毎日新聞夕刊報道グループ記者(当時)/藤原章生

 

 日曜日の午後、思い立って玉川学園の尚子さんを訪ねた。芸術家、赤瀬川原平さんの奥さんである。赤瀬川さんが亡くなったのは2014年10月26日。あれからもうすぐ4年である。

 「奥さん」と書くと、「そういう呼び方が女性を差別している」と思われる方もあるだろうが、尚子さんの場合、この呼び方がしっくりくる。妻、パートナーというとちょっと違和感がある。

 赤瀬川さんが亡くなった日、私は尚子さんに電話で呼び出され、かけつけた。頬の冷たくなった遺体のそばで、娘の桜子さんと尚子さんとしばらく共に過ごした。そして、夕暮れを前に南伸坊さんら友人らが集まり出し、私は遺体を安置所に運ぶ際、赤瀬川さんの頭のあたりを持つ役割を与えてもらった。

 記憶はどういうわけかその後、写真的になっている。どこかでの通夜、鎌倉の葬式、しばらく経って帝国ホテルで開かれた偲ぶ会、千葉市で開かれた赤瀬川原平展などで尚子さんのそばにいたのに、記憶に動きがなく、尚子さんの凍りついたような顔、時に涙を浮かべている横顔、無理して微笑んでいるときの目尻の赤らんだ皮膚などが写真のように止まっている。

 今回訪ねると尚子さんも「あの前後のことは全然覚えていないの」と言った。

 家に近づくと玉川学園の丘陵が見えた。奥多摩や丹沢にはちょくちょく行くので東京西部は珍しくないが、緑と家が混ざり合ったこの丘陵はここにしかない風景のように思えた。

 少し迷って、赤瀬川邸の裏側、坂の下に車をとめ、庭へと続く急な石段を上がっていくと、雑草が伸び放題で、道を塞いでいた。赤瀬川さんがいたころはきれいに刈り取られていたので、「尚子さん、やさぐれちゃったのかな」と少し心配になった。テラスに達すると、鉢植えが置いてあったが、枯れているものもあった。置かれ方もてんでばらばらで、作業の途中で放ったらかされたような、やはりやさぐれた印象があった。裏のガラス戸を開こうとすると、二つとも鍵がかかっており、これも珍しかった。前はいつも開いていたのに。

 それでもスリッパはきれいに置かれていた。「こんにちは」と何度か呼ぶと二階から尚子さんが降りてきた。

 「お久しぶりー」

 前よりもなお色が白くなり、痩せていた。張りのあった頬やおでこに刻まれた小さなシワ、耳元の微かな白髪が歳月を思わせた。それでも尚子さんは以前のように、年よりも一回り、いや20歳は若く見える。

 「あれ、藤原さん、少し変わった?」と言うので、頬の肉を掴み「太ったから」と言うと、「いや、太ったっていうより大きくなった、全体に。成長してるんじゃない、まだ」と言って、「うふふふ」と以前のままのいたずらっぽい笑い方をした。

 通されたリビングを見回すと、何もかもが赤瀬川さんがいたころのままなのに、全体にピリッとした感じがない。絵や置物が、以前は1mmの狂いもなくきちっと置かれていたのに、キュービズムの絵のように遠近やタテヨコの配分が歪み、それぞれに埃が被っているように思えた。

 3時間ほどとりとめのない話をした。赤瀬川さんの思い出、犬のこと、尚子さんが好きな沖縄、韓国語の勉強のことなど。尚子さんは最初、寂しそうな「未亡人」という感じだったが、だんだんと生き生きしてきて、前と変わらない笑顔になった。それでも、部屋全体の緊張の抜けた印象は最初のままだった。

 赤瀬川さんが生きていた2014年。意識を失い、寝たきりになっていたが、そんなことを知らない私がたまたま電話をしたら、「藤原さんなら、まっ、いいか」と思った尚子さんが、誰も受け付けなかった家に招いてくれた。それから週に2、3度の割合でお見舞いに通った。そのころ、主(あるじ)は2階のベッドで寝たきりだったのに、家全体がきちんと整い、カメラから絵から、書きかけの原稿、本までが、赤瀬川さんの分身のように真面目にきちんと正座していた。空気までがきちんとしていた。

 それが抜けたのはなぜなのか。喪に服している尚子さんが、あったときのままに放置するうちにものものから次第に緊張が抜け、正座があぐらになり、横座りになり、全体に野放図な感じになったのだろうか。

 あるいは、赤瀬川さんの死で、割とリラックスした、ゆったりと柔らかい尚子さんの感じが部屋全体を占めるようになったのか。赤瀬川さんがいたからこその尚子さんが、本来の尚子さんに戻ったということなのか。

 そんなことを考えていると、「ねえ、こんなもの受け取ってもらっても、生々しくて嫌かなと思ったんだけど、もらってもらえれば」と隣の部屋から尚子さんが何かの束を持って来た。

 赤瀬川さんの手書き原稿だった。「藤原様」と宛名が書いてある。新聞に書いていた「散歩の言い訳」という企画記事の原稿だった。字というより唐草模様のような形のひとつひとつがジョークを話す時の少し得意げな笑いのような、赤瀬川さん独特の文字が並んでいる。控えめだが自意識の強い、優しい笑い声が聞こえてきそうだ。

 「わっ、赤瀬川さんの字だ」と私が声を上げると、尚子さんは「ね、そういうのを見ると、まだ生きてて、そこからひょっと出てくるような気がするでしょ」と、締め切った作業部屋に目をやった。

 そうか、尚子さんはまだ喪中なのだ。膨大な手書き原稿と絵画、カメラやマッチ箱のコレクション。赤瀬川さんの品々に取り囲まれ、まだずっと赤瀬川さんと一緒にいるのだ。

 それだけ偉大で、忘れがたい人だった。でも、芸術家は物を残すから、残された人は大変だな、とも思った。それでも、尚子さんは決して迷惑そうではなかった。

 

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