自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

放射能は「未来の武器」

2015年5月号掲載

毎日新聞夕刊編集部編集委員(当時)/藤原章生

 

 「高校1年の時ね、僕、『アサヒグラフ』の懸賞マンガに投稿したことがあってね。放射能の絵なんだけど」

 先日、東京・お茶の水のホテルで会った佐藤文隆さん(77)が面白いことを言った。佐藤さんは山形県立長井高校を卒業と同時に京大理学部物理学科に入り、教授まで務めた人だ。相対性理論を基にした宇宙物理学が専門で、世界的な業績として「アインシュタイン方程式におけるトミマツ・サトウ解」というものがある。

 「空から放射能が降って来てね、それを小屋みたいなところで漏斗で集めて、袋に詰めて小売する絵なんだけど。『新鮮』『ビキニ産』って看板つけてね。変態みたいだけど、そのころの感覚ではそう変態じゃないんですよ」

 その言葉を使い始めた時代のせいか、「変態」という言葉を佐藤さんは「頭のおかしな人」くらいの意味で使っている。

 佐藤さんは頭の良い人にありがちな所作の人だ。77歳にしては若々しく、「それがですね」と自分が話すことが自分でも真底おかしいと、笑いながら話す。そのテンポが速く若干ずれている。私の友人知人にもこういう人がいる。頭がいいと言っても、要するに東大などに合格するような頭脳だ。記憶力や分析力に長けているが、半面、所作が少し特異なため、社交性や処世術に難があるタイプ。

 ビキニ事件が起きたのは1954年3月1日。南太平洋のビキニ環礁で米軍が水爆実験を行い、遠洋マグロ漁船、第五福竜丸が被ばくし、無線長だった久保山愛吉さん(当時40歳)が半年後に亡くなった。

 放射能、「死の灰」という言葉が一気に広がる契機でもあったが、この時、高校一年の終わりだった佐藤さんは「死の灰と聞いたときは、悲惨さということもあるんですが、科学の成果と思う面があったんです」と振り返る。大学では「原発反対の活動に加わったりもして、自分ではちょっと矛盾してるんだけど、原爆、水爆に対する最初の印象はそうでした」と言う。

 原爆についても、似た印象だった。「多くの日本人がおそらく初めて広島、長崎の問題を知ったのは、(1952年8月の)『アサヒグラフ』の原爆特集じゃないかと思うんです。被ばく者のケロイドの写真が載ってて、ショックではあったんですけど、僕は『うわ、原爆はすごい』と思ったね。『物理はすごい』『アインシュタインはすごい』。全然、ひどいってのないんですよ。とにかく、すごいなんです。『科学の成果』だと」

 佐藤さんはこうした「正直な反応」を95年「科学と幸福」という本で吐露した。それを哲学者の中村雄二郎氏が岩波書店の本「講座・科学/技術と人間」(99年)の第一巻「問われる科学/技術」の「総論ーなぜいま科学/技術なのか」でこう書いている。

 <佐藤は、世の多くの科学/技術批判が結果としての弊害や危険を声高に述べるだけで、当事者である科学者の本音をほとんど考慮していないことを不満とし、一見反時代的に見える<科学と幸福>というテーマを真っ向から取り上げている>

 <今日一般には、科学が悪の刻印を押されている最大の理由は、それが世界を破滅に落とし入れかねない〈原爆〉を生み出したことにある、とされている。だから、科学の負の面だけでなく正の面を問題にしようとするとき原爆を持ち出すことはほとんどタブーになっている。ところが佐藤は、自分にとって原爆がなんであったかを、あからさまに告白する。すなわち、最初に原爆投下という事態に接したとき、子供心に自分が受けたのは「原爆はすごい! という感銘のようなもの」であった。のみならず、それこそ、「自分を物理学に導いた原体験ではなかったか」という想いさえある。当時の一般的な受け取られ方は、といえば、科学の進歩はいまや原子の世界を解明した。その最初の証明が爆弾であったのは確かに不幸であるが、その知識が原子力をはじめ数々の恩恵を人類にもたらす科学の時代に入った、というものであった>

 佐藤さんと会ったのは、京大物理出身の森一久さんについて聞きたかったからだ。佐藤さんは私が昨年9月から新聞連載してきた森さんの評伝「原子の森 深く」を読んでくれていて、私の問いに違和感を抱いたのではないかと思う。

 「森さんは広島で被ばくし、家族5人を瞬時に失いながら、なぜ原子力推進に突き進んだのか」

 これはイタリアの哲学者、ジョルジョ・アガンベンが私にぶつけた問いに似ている。「日本は原爆を2発も浴びながら、なぜ54基ものの原発を造るに到ったか」

 だが、こうした疑問は後づけのものではないか、というのが佐藤さんの見方だ。 「平和になってから聞けば、原爆で一瞬にして10万人というは驚きだけど、日本では300万人とか死んでるわけでしょ。お父さんいない人いっぱいおったですよね。被害という点で、原爆だけが特別だという意識は、戦後しばらくなかったんじゃないですかね。だから、あのころ、原子力やろうと思わないようなヤツはダメだと思うよ」

 1から5シーベルトほど被ばくし、生還した森さん自身、原子力を目指すのは当然であったという見方だ。

 私が物心ついたのは戦後20年もたってからだが、思い当たる節はある。「鉄腕アトム」を挙げるまでもなく、放射能は「未来の武器」というイメージで、怪獣ごっこの決め技に確かに「放射能」という言葉があった。

 現代人の問いで過去の時代の個人の思いを分析しても、明答は得られない。その時代の精神、空気により近づき、淡々とその人物をつづる必要を感じた。

 

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