2011年4月号掲載
「あれは5月やったなあ。確か、連休のあとだった。何の日やったか、そう、子供の日や。西村先生に呼ばれたんやわ」
森一久さんの同級生、水田泰次さんは昭和20年5月、京大工学部治金(やきん)学科の1年生だった。京大を出たあと、北陸で合金会社を築き、私が話を聞いたときは会長職についていた。通院で上京した07年2月、森さんが老舗の料理屋で私に引き合わせてくれたのだ。背は高くはないががっしりとした体つきで、気取らない、根の明るい人という印象だった。
水田さんは学科の西村秀雄教授に「広島の家に帰り両親を疎開させるように」と言われ、被爆をまぬがれた。自身も被爆し、両親ら5人を失った森さんとは対照的な立場にある。
「西村先生は広島の学生ということで、僕のことを調べたんだと思うよ。本人から連絡があって、先生の部屋に行き、ソファに座ると、『広島に帰れるならすぐに帰って、疎開させなさい』と言われて。理由など聞くどころじゃなかった。『市内に住んどるんか。両親とも市内におるんか』と聞かれて」
水田さんはその日の夜行で京都から広島に帰った。
「親父はそのとき60歳、兄たちは戦争に行ってて、姉は肺結核で入院しとったから、広島市の平塚町の家におるのは両親だけやった。親父は文句も言わず、『お前、えらい学校いっとるから、言うこと聞こうか』ということになったんよ。それで大八車で太田川(おおたがわ)の脇をのぼって行った」
疎開先は廿日市(はつかいち)だった。「300坪もあるような土地と家を買い取って。親父の本職はこぶ屋で、こぶとタバコを売っとったんやけど店を閉めて信用組合の理事長をしとったから金をかりられたんよ」
親戚はどうしたのだろう。
「何も言わなかった。市内に結構おったんやが、戦争中やから、言うたらわし殺されるもん。完全に。そういう感じやもん。日本は負ける、と言うようなもんやもの。あのころでも、広島にずっとおる人は全然、負けるとは思ってなかったから」
その3カ月後の8月6日、原爆は落ちた。
「落ちてからびっくりしたって感じやな。僕は京都にいたんやけど、落ちたあくる日、すぐ帰れと言われた。市内を歩いたけどなあ。原爆症にならへん」
脇にいた森さんが、「それくらいじゃ、ならんよ」と笑いながら口をはさんだ。「そうか、ならんか」と水田さんも笑い返した。
5月の初め、教授室にいたのは西村教授だけではなかった。隣に物理学科の湯川秀樹博士もいた。「そばでじーっと聞いてた。証人になるようにという感じやね。あのころ、そんなことばらしたら大変よ。大学の中にも軍人、入っとったからね。二人は三高の同級生ですわ。ずっと仲良くやってましたよ」
湯川博士は何も話さなかった。「部屋にいたのは5分くらい。あのころの先生は家庭的、気さくやった。偉い先生は本当に気さく。でも、湯川先生は何も言わんかった。ただ聞いとるだけやった」
米国が投下先に広島を選んだのは、昭和20年の4月ごろというのが定説だが、その情報が日本の一部に届いていたのだろうか。当時、空襲を受けていなかった都市は京都と広島だ。西村教授は空襲のことを考えていたともとれるが、水田さんはそれを否定する。「普通の空爆とは違うから、早く疎開せえと言われた。広島が該当になっとるぞ、お前帰れというような話やったと思う」
西村教授は軽合金、特にジュラルミンの大家で、米国に多くの友人がいた。原爆製作にかかわったシカゴ大の教授たちとは特に親しかったという。「多分、シカゴの治金の先生からの話だったと思う。原爆に治金の教授たちが関わったからね」
仮にそうだとして、どういう方法で情報が西村教授にもたらされたのか。「電話もできんしねえ。手紙も全部検閲があるからね。確かに、どういう方法でと言われたら、わからんな」
原爆投下の前、米軍の捕虜が連行されていく姿を森さんは見ている。「橋のところにつながれているのを見て、かわいそうにと思いましたよ」
「あの捕虜は東京の収容所に連行されたんや」と水田さんが応じた。「日本の軍部の中にスパイがおったんよ。それで、アメリカ兵を原爆の前に東京に移したんよ」
軍部に原爆情報が流れていたとすれば、それが西村教授の耳に入ったことも考えられるが、戦後、西村教授からその話を聞くことはなかった。
「先生とはお互い何も言わなかった。まだ戦争の余韻が残っていたもの。死んだ人に申し訳ないわな。30万人即死やからな。40年間言えんで黙っとったよ。それで、先生が亡くなってかなりたって、広島高等学校の会報誌に手記を書いたんや」
森さんはその手記にショックを受けた。そして84歳で亡くなる直前まで、そのことを考え続けた。なぜ、湯川先生は話してくれなかったのか、と。
「僕は本当は東大の物理に行きたかったやけど、内申が足りないんで、京都の治金に行ったんよ。でもそれでああいうことになったんやからな」
水田さんがそう言うと、森さんはすかさずこう応じた。
「親孝行しているわけや」
笑顔は絶やさない森さんだが、微かに自責、悔悟の思いが混じっているように聞こえた。
=つづく
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