自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

経験から学ぶのは愚かなのか

2009年10月号掲載

毎日新聞ローマ支局長/藤原章生(当時)

 

 いま、私はローマに暮らしている。観光客が集まる市街地から少し離れた、南外れのアパートの4階だ。先週からこのアパートに、キリスト教の人が来るようになった。ダニエルという名の30代後半の男性だ。イタリア人は概して日本人より老けて見えるが、彼も白髪が目立つ。ただ、よく見ると、その目や顔つきは若々しく、エネルギッシュな感じさえする。

 私はどの宗教にも属していないが、95年から5年半、南アフリカに暮らした時、キリスト教の友人や知人ができた。大虐殺があったルワンダで助手をしてくれたモーリスという男も、絵に描いたような信者だった。

 3カ月間で100万もの人々が殺されたルワンダの地を彼と歩き回った。異臭が漂う町は、奇妙に明るかった。ほどなく戦争が始まったコンゴにもよく一緒に行った。元ゲリラの彼には、軍にコネがあり、軍用機で前線のある町に入り込むこともできた。怒鳴ったり怒ることはなかったが、子供のようにはしゃいだり、絶望的な顔をする感情的な男だった。日本の地下鉄サリン事件の話をすると、「うわっ」と声を上げ、顔をゆがめ、指でこめかみを押さえ、「病気だ……」とつぶやき、ベッドに突っ伏した。亡命先の隣国、ウガンダで生まれた。10代でゲリラになり、激しい内戦の末、94年、母国ルワンダに乗り込んだ。大虐殺はその時、敵が置きみやげにしたものだ。私が彼に会ったのはその翌年だった。

 ワイシャツ姿の彼はいつも聖書を手にし、よく教会に顔を出していた。おそらく、ゲリラ時代にひどい経験をしたのだろう。何かを思い出すと、整った顔を思い切りゆがめ、うつむいては、祈りの言葉をつぶやいた。

 一度彼に頼まれ、そのころ私が暮らしてたヨハネスブルクから、英語版の聖書を贈ったことがあった。そのとき、自分用にも買った南アフリカ聖書協会の黒皮のハードカバーがいま手元にある。だが、私はその重い本をつまみ読みはしても、きちっと読んだことがない。どういうわけか、途中でやめてしまうのだ。退屈というのか、目の前の小説や、日々の仕事の本につい手が行ってしまう。

 イタリア人のダニエルを我が家に入れたのは、部分部分でもいいから、聖書を読んでみようという、これまで何度も現れては消えた思いつきだった。彼は私に聖書のいろいろな言葉を示し、声に出して読みながら、割と手っ取り早くというふうに神の偉大さを語る。といっても、外見や出自で人を差別しないといった、どこかで聞いたような話で、「おっ」と耳をすますような言葉はない。ただ、彼が自分を語る一言にちょっと引かれた。

 「私は変わりました、ある時を境に少しずつ良い人間になりました」

 なぜ変わったのか問うと、「聖書を読んで変わりました。人間として成長したのです」と、おそらく布教の際に何度も言ってきたはずの言葉をよどみなく言った。

 「そうですね」だとか、「何と言ったらいいのか」と、話す前に考え込むことがない。きっぱりとした態度が少しわざとらしい気がして、私はもう少し聞いた。

 「それはいつ?」「88年のことです」。

 「いくつだった」「14歳です」。彼は14歳のとき、同じグループに属していた親の勧めで聖書を熟読し始めた。

 「聖書を通しあらゆることがわかりました。最愛の妻と出会えたのも聖書のお陰です」。それ以上聞く気がしなくなった。

 詳しく聞いた訳ではないが、14歳からこの方、酩酊や遊興、怠惰、淫行といった道を一切知らず、布教活動を続けてきたことが、彼の顔から想像できた。そんな彼をばかにしているわけではない。むしろ、それはそれでいいと思う自分がいる。それでも、経験主義というほどではないが、人を変える上で、経験が大事だと、少なからず思っている。

 <愚者だけが、自分自身の経験から物事を学ぶことができると信じている>。19世紀後半のドイツの宰相、ビスマルクの言葉だ。そして、こう続く。<だが、私はむしろ、自分の過ちを避けるため、他人の経験から学ぶのを好む>。

 これに従えば、愚者が私で、聖書からすべてを学んだと言い切るダニエルは賢者なのかもしれない。そして、私は彼を否定できない。なぜなら、聖書を読むという経験を積んでいないからだ。

 ルワンダのモーリスは、戦争や政治の話のたびにこう言っていた。「そんなことはすべて聖書に書いてある。人間はとっくの昔に犯した過ちを、何度も何度も繰り返してるだけだ」。

 写真家の故星野道夫は、人が何かに感動したとき、それをどうしたら人に伝えることができるのかと問い、誰かの言葉として、こう書き残した。

 「自分が変わっていくことだって。その夕日を見て、感動して、自分が感動して変わっていくことだと思うって」。

 似たような言葉が聖書にもあった。

 私の問いがとぎれたのを知ると、偶然だろうか、ダニエルは次の個所を示した。

 <この世に調子を合わせてはいけない。大事なのは、心を入れ替え、自分を変えることだ。そうすれば、神の意志を知ることができる。つまり、何が良いことで、何が神に受け入れられ、何が完全であるかを知ることができる>(新約聖書、ローマ12、英語版から藤原訳)。

 「感動したことを人に伝える」最良の方法は「自分が変わること」だと星野は言った。聖書の言葉の方は、論の進め方が逆になっているが、前後を置き換えれば、「神の意志を知る」最良の方法は「心を入れ替え、自分が変わることだ」となる。

 星野は聖書をもとに、あの詩を書いたわけではないだろう。ただ、二つの文章には、どこか重なるところがあるように思える。

 それにしても、ダニエルは聖書の文言を読むだけで、何かをつかみ、変わってきたのだろうか。私には抵抗がある。読むことだけで本当に悟りを開くようなことが、あるのだろうか。

 でも、否定はできない。なぜなら、やはり私はまだ聖書を読んでいないのだから。