2009年9月号掲載
中米の小さな国、ベリーズで私は突然落ち込んだ。25歳の夏だった。あれは何だったんだろう、と今も思う。
私の上、「団塊の世代」とひとくくりにされる人々はよく「挫折」という言葉を使う。今はそうでもないが、80年代の半ば、私は何度かその言葉を聞いた。新宿ゴールデン街に初めて行ったのもそのころだった。登山関係者が集まる店が新宿にあり、いい気分になったころ、ゴールデン街の「ナマステ」という店に連れていかれた。インドの香がたかれ、壁に曼陀羅の絵がはってある店だった。
私はそこが気に入り、何度か通った。学生でも社会人でもない、中途半端な20代半ばのころだった。藤原新也の「印度放浪」という本が若者の間で読まれ、放浪という言葉に、あこがれがまぶされる時代でもあった。
ある晩、その店に行くと先客がいた。明らかに全共闘世代で、影をひきずったような、それでいて険しいほどの力のある表情をした男が、酔った勢いでこんな事を言った。
「人間は挫折しないと駄目だ」
その男がどう挫折をしたのかは知らない。真意は、お前みたいな理屈ばかりの若造は駄目だという、私への反感だったように思う。見知らぬ者同士が酒場のカウンターで議論する。そんな事がまだ当たり前のようにあったころ、彼は「新人類」と呼ばれる世代に説教をしたかったのかも知れない。
「挫折ってのは、進んでするものなんですか」
私はそんな風に反発したが、議論は深まらず、彼はただ、「挫折していないから駄目なんだ」と言いつのった。その男とはそれきりだが、言葉だけが耳に残った。
25歳の夏。「生きていても仕方がない」とベリーズで陥ったうつの感覚は、もしかしたら、挫折に近かったのかも知れない。後にも先にもあれほどの落ち込みを知らないからだ。
私は何者かになりたいと思っていた。ずっと山登りをしてきたため、登山家になりたかった。でも、それが無理だとわかったとき、かわるものが何もないと気づいた。そして、当時の言い方をすれば、山を目指す「縦の旅」から水平線を目指す「横の旅」に切り替えた。そんな表現で自分を納得させたのは、山を離れる自分への言い訳でもあった。
そんなころ、就職の話が降ってわいた。
「君、卒業する気はあるのか」
札幌の大学にいたある日、担当教授に呼び出され、そう聞かれた。
私は、数学か地質を勉強したいと思っていたが、1年生を3回もやる落第生だったため、工学部の資源開発工学科、昔でいう鉱山学科に籍を置いていた。
「いや、ないです」
そう答える私に教授は穏やかな笑みを返した。
「就職しないで、どうするんだ。大学院に来るか」
「いや、いいです」
「君、卒論を書いて早く卒業した方がいいぞ」
「はあ。でも、まだ山を続けるつもりなんで」
「山なら、就職しても続けられるだろ。ま、経験だと思って試験を受けてみないか」
「いや、いいですよ」
「君、実家は東京だろ。飛行機代は向こうが出してくれるから、里帰りついでに、受けたらいいじゃないか。行くだけでいいんだ。どうせ一人しか受からないから、受からないよ、大丈夫だ」
きっぱりと断れないまま、東京の企業に行くと、合格枠1人のところを受かってしまった。うれしくはなかった。本当に就職したくなかったのだ。
「辞退したい」と教授に言うと「受かったのも何かの縁だ」と押され、優柔不断な私はずるずるとするうちに、断る機会を逃していた。中米のベリーズに行ったのは、そんな入社を目前に控えたころだった。
どんなにがんばっても、いい職が得られない人がいるのに、ふざけた話である。だが、当時の私は視野が狭く、就職したら何もかも終わりになるという気がしていた。鋼鉄でできた小さな部屋に押し込まれ、外から重いドアを閉められたような。就職しエンジニアになるのは、何者かになりたいという望みとは逆のものだった。
就職まで数カ月の猶予があった初夏、私は逃げるような思いで、アルバイトでためた2000ドルを手に、中米に飛んだ。アンデス山脈に行こうと思ったのだ。そして、陸路で南米を目指す途上、たまたま立ち寄ったアフリカ系の国、ベリーズでひどく落ち込んだ。
ぜいたくな悩み。大した話ではないのかも知れない。それで何かが吹っ切れたわけでもない。
でも、そのちょうど10年後、学生時代には考えもしなかった新聞記者に転職していた私は、アフリカの戦場など、ひどい気分に陥る度に、その時の落ち込みを思い出した。
自分が変わること。それが何を意味するのかはわからない。だが、一つ転換点を挙げるとすれば、ベリーズでの落ち込みがそうだったように思う。
落ち込んだ翌朝、早く目が覚めた私はふらふらした気分で町を歩いた。密林に囲まれた緑の街は朝もやで煙っていた。昼になればじっとりと汗が出てくるのに、まだ朝方は、空気がきりっとしていた。
自分の中で何かが変わったという自覚はなかった。ただ、違いを挙げるとすれば、自分の周りを見る目が少し柔らかくなったような気がした。と同時に、周囲の人々が私を見る目も柔らかくなった。
もやが晴れ、小さなドブのある赤土の通りを歩いていたら、赤ん坊を連れた20歳くらいの女性がみすぼらしい家の玄関前にたたずんでいた。目が合い、私たちは軽い笑みを交わした。特に言葉を交わすでもなく、私たちはしばらくそこでじっとしていた。
若者が単に成長の過程で、何かを越えた、何かをあきらめた、その転機だったのだろうか。でも、それだけではないように思う。
黒い顔の人々の中でひとりぼっち。だからこそ、自分はそこで何かを感じたのかもしれない。