自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

ベリーズの激しい雨

2009年8月号掲載

毎日新聞ローマ支局長/藤原章生(当時)

 

 何かに感動したとき、どうしたらそれを人に伝えられるか。絵にするか、それとも言葉にするのか。そんな問いかけに、写真家の星野道夫はこう書き残してる。「感動して、自分が感動して変わっていくこと」

 では、人は変われるのだろうか。自分は変わっただろうか。

 そんなことを思うとき、ベリーズという国にいたときの事を思い出す。中米のユカタン半島の付け根にある小さな国だ。1981年にイギリスから独立したアフリカ系の国で、私は86年、25歳の夏、そこにいた。

 高校を出てすぐに北海道大学に入ったが、山岳部に入り、1年生を3回も繰り返した。半ば怠慢から、半ば意図的に単位を落とし、卒業までに6年半もかかった。

 「半」というのは大学5年目の後期、インドヒマラヤに行くため、半年間休学したためだ。結果的に学部での滞在期間が1年半しかなく、卒業が半年延びたのだ。そんな10月卒業までの間、私はアルバイトでためたお金で、中米旅行をした。ちょうどアンデスから帰ってきたばかりの友人がペルーの伝統音楽、フォルクローレの音色を聞かせてくれ、引き込まれるように南米に行きたくなった。

 中学から一人で山に登り始めた私は、大学でも山ばかりで、ヒマラヤに行くまでになっていた。でも、高校球児の誰もが野球選手になれるわけではないように、私の山登りのレベルもほどほどの域にすぎなかった。それに薄々気づいたのが大学生のころ。

 ただ山登りは単に成績を競うスポーツではないので、「お前は二流」といった烙印をはっきり押されることもなく、私は、沢登りや岩登りを続けていた。

 そんな25歳の春、再びインドに行こうと準備をしていたとき、アンデスを知り、私は思いつきで、ロサンゼルスに飛び、そこから陸路でメキシコ、中米を通り、ペルーを目指した。

 ベリーズは、1カ月ほどかけてメキシコを通過した後、内戦の続いていた中米諸国に入る前の、通り道に過ぎなかった。どんな国なのかも知らなかった。

 メキシコ国境の町に夜到着し、一泊400円ほどの安宿に泊まり、朝を迎えるとすぐにバス停に行った。どこにでもあるメキシコの田舎町。朝からわさわさと人が歩き、どこかの出店からメキシコのポップスが流れている。

 ベリーズ行きのバスの後方にすわり、うとうとしていた。バスは南に向かう。窓から差し込む緑の光は次第にその色を深く、暗く、濃い色に変えていった。私は居眠りをした。心地よいバスに揺られ、少し前に座るメキシコ男のパナマ帽のクリーム色と、その奥の群衆をぼんやり見ながら眠りに落ちた。

 目が覚めると、午後を回ったのか、緑の風景はさらに濃くなっていた。目の前の乗客は一変していた。メキシコ人の姿は消え、みな黒人になっていた。聞こえてくるのも、スペイン語ではなく、私には聞きなれないこの地方の英語だった。

 少し身構えたのを覚えている。それまでメキシコではいい人に巡り合い、泥棒に遭うことはなかった。同性愛の男性に追いかけられたり、バス停で出会った若者に、300円ほどを騙し取られたことはあった。だが、身の危険を感じることはなかった。

 しかし、そのバスの光景を見たとき、私は何となく、異境に入り込んだ気になった。

 バスがベリーズ・シティーに着くと、私は近くにあった「リバーサイド・ホテル」という安宿に入った。

 肩に刺青を入れた宿の主人が上半身裸で出てきて、鍵を渡してくれた。アシで編んだ高床式の部屋に入っても、なかなか外に出ず、おずおずしていた。怖かったのだ。何が怖かったのか。それは私の偏見だったのだろう。肌の色の濃いアフリカ系の男たちの貧しい土地を目に、とんでもない所に来てしまった、という思いがあった。黒人はみな怖いといったほどの思い込みはなかったが、初めて黒人たちと向き合い、私は身構えた。

 町で人と話しても、声をかけられても、どこか不自然なこちらの感じが相手にも伝わるのだろう。すぐに仲好くなれる人と出会わないまま、2日目の夜を迎えた。町は、ハリケーンにやられ木造の町が波に洗われ白く禿げあがっていた。

 そんな町を歩くうちに私は、中国人が経営する安宿に移った。お婆さんが笑顔で出てきたが、何も語らず、部屋に案内してくれた。通りかかった食堂に中国人の若者が数人いて、やはりあいさつ代わりにニッコリ笑った。

 そこで久しぶりに美味しい東洋の飯を食べ、私は部屋にこもった。外は激しい雨だった。

 それは突然やってきた。

 鬱の感情だ。急性症状とでもいうのか、急激に落ち込んだ。考えれば考えるほど、どんどん落ち込んでいった。

 「自分は何をやってもダメな人間だ。子供のころのオルガン教室をはじめ、剣道、バレーボール、テニス、勉強・・・、何をやっても途中でやめてしまう。山も結局、中途半端に終わる」

 そんなことを考えているうちに、「生きていても何の意味がある」と思うに至る。

 25歳といっても、まだ子供である。

 その20年ほど前。4、5歳のころ、私は似たような経験をしている。

 夜中に突然目覚め、寝息を立てている母の横顔を見たとき、こう思った。

 「一生は、なんて短いんだ。みなあっという間に死んでしまう。お母さんも死んでしまう。いや、もう死んでいるのか」

 物心ついたばかりの私は直感的にそんなことを思い、死が怖くなった。そして、絶対に死ぬと悟ったとき、生があまりにも、はかないものだとわかり、不安になった。

 安宿での感覚は、20代なのでもう少し、言葉がごちゃごちゃとしていたが、本質的には同じだった。

 なぜ、そんなときの体験を今思い出すのかと言えば、それも、もしかしたら、星野道夫の言う、「自分が変わること」とどこか似た経験のように思えるからだ。